♯はじめまして
卓上ミラーに向かって化粧をする彼女を、おれは後ろから何となく眺めていた。
鏡に映る顔がみるみる明るく華やいでいく。まるで魔法がかけられていくように。
一週間に一度。彼女はだれかの彼女になる。
「なに? そんな珍しくもないでしょ?」
彼女は手を止めて、鏡の中のおれにむっつりとした顔を向ける。
「相変わらずよく化けるなあと思ってさ」
「人を妖怪みたいに言わないで」
眉を少し吊り上げてから、
「でも、あながち間違いじゃないかもね」
女にとって化粧は変身魔法なんだから。
彼女は取り澄ますようにそう言った。
身に沁みてるよとおれは苦笑いする。彼女が変身するところを飽きるくらい見てきたのだから。
「で? 今日はどんな子?」
「『パパ大好きっ子なアイドル志望の女子高生』
「ピンポイントだな」
「直々のご希望なの」
「名前は?」
「ミユキ」
はじめましてミユキちゃんとからかったら、彼女は少し考える素振りを見せた後、何も聞こえなかったかのように再び手を動かした。
♯またね!
また遊ぼうね、
また来ようね、
また会おうね、
また、また、また、
また、また、また、また、また、
抱き合い、一緒に涙を流した友人たち。
そのだれもが、今は新しい環境で新しい人間関係を築き、新しい生活を満喫している。
――みんな、みんな、ウソばっかりだ。
メッセージアプリを閉じると、まっくろなディスプレイに、怒りに歪んだ男の顔が映りこんだ。
僕に『また』という希望を植えつけた彼らが憎かった。
(『また』を叶えたいと思わせられなかった僕が悪いのに)
♯春風とともに
春風に吹かれながら愛犬と楽しく散歩した――そんな他愛のない日常をSNSに書きこんだ、その数秒後。
『花粉症つらーい』
『お外に出られないよ~』
『ごめんね、我が子たちよ…』
が、タイムラインを流れてくる。ペットらしき犬の写真と一緒に。
私に宛てたものじゃない。けどタイミングからいって、明らかに私の呟きを指して言っている。
だれだ。こんな当てつけをするヤツは。
見ると、同じユーザー名が並んでいた。ただアイコンもハンドルネームも見覚えがない。
心の中で包丁を携え、私はそいつのアカウントに飛んだ。ひととおり眺めるも、やっぱりフォローした覚えがない。
たぶん知らないうちに間違ってフォローしちゃったんだな。
すぐにフォローを外し、少し考えた後、ブロックしておいた。
暖かくなると変な人が増える。そんな言葉をふと思い出す。
春風と一緒にやってくるのは花粉だけでいい。
♯涙
初めは私だけだった。
鍵盤の上で踊る彼の指を見るのも。奏でられる彼の音色を聴くのも。
けれど彼の腕が上達にするにつれて、どんどん人は増えていった。
気づけば、私は大勢いる観客の中のひとりになっていた。
燦々と降りそそぐ光の中で、ピアノを弾き続けるひとりの青年。
会場を埋めつくす人々の合間から、すんすんと洟を啜る音が聞こえる。
嬉しいわけではなく哀しいわけでもない。だからといって憤っているわけでもなく可笑がっているわけでもない。
流れるような旋律が創りだす色彩豊かな世界に、人々ははらはらとこぼす。『美しい』という、もっとも純粋で無垢な涙を。
――初めは、私だけだったのに。
彼は弾き続ける。
彼の演奏を聴くためにチケットを買い、会場まで足を運んでくれた大勢の人々に向かって。
冷たいものが私の頬を静かに落ちていく。
それは、なんだかしょっぱい味がした。
♯小さな幸せ
そういやサカキバラさん引っ越したみたいっすよ。
と、ふいに後輩が言った。
俺は一瞬、『サカキバラさん』が誰なのかわからなかった。
不審げな顔をする俺に、「ほら、宝くじの……」と後輩は声をひそめる。人目をはばかるようなことをしなくても詰所には俺たちしかいない。他の作業員は外食に出かけたり、車内で仮眠をとったりしている。
宝くじと聞いて、人の好さそうな笑みを浮かべた爺さんが記憶の中から滲み出てくる。
榊原さん。三ヶ月前まで一緒に現場で働いていた同僚だ。宝くじに当たり、悠々自適な隠居生活を送るべく退職した。当選金は億単位にのぼるらしい。
――と、目の前にいる後輩からそう聞いている。
「引っ越したというが、またどこの情報筋だ?」
退職の理由や宝くじに当たったことを、榊原さんは誰にも明かさなかった。にもかかわらず、この後輩が知っていることに、俺はきな臭いものを感じていた。プライベートで付き合いがあるならまだしも、そんな気配など毛ほどもなかったからだ。
「探偵でも雇ってんじゃないだろうな?」
「な、なんでそこまでしなくちゃならないんすか!」
「そんなの俺が知るワケないだろ」
とにかく、と後輩は仕切り直すように言った。
「宝くじに当たったこと、どこからか漏れちゃったみたいで。怪しげな募金団体やら宗教団体やら、それまで付き合いのなかった親戚たちにまで押しかけられて、うんざりしちゃったみたいっすよ。それで」
ご近所さんが気づいたときにはもぬけの殻。夜逃げどーぜん。
「ま、引っ越すのがいちばんっすけどね。海外じゃ事件にまでなってるみたいっすから」
「事件?」
「強盗殺人すよ。怖いっすよねえ」
そう他人事のように言って、後輩は「それにしても」と肩を竦めた。
「榊原さんの想像してた隠居とは、程遠いものになっちゃったみたいすね」
たまに飲み物をおごってくれたこと。仕事で失敗したとき励ましてくれたこと。榊原さんとの思い出が次々と浮かんでは消えていった。
「……失うもんもあったが、それくらい得るもんもあったんだ。イーブンだろ。俺なら失うもんを考えたら晩酌のビールで充分だな」
「で、そのビールいくらなんすか」
「235円」
ちっちゃいっすねえと、後輩は声を上げて笑った。