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♯小さな幸せ


 そういやサカキバラさん引っ越したみたいっすよ。
 と、ふいに後輩が言った。
 俺は一瞬、『サカキバラさん』が誰なのかわからなかった。
 不審げな顔をする俺に、「ほら、宝くじの……」と後輩は声をひそめる。人目をはばかるようなことをしなくても詰所には俺たちしかいない。他の作業員は外食に出かけたり、車内で仮眠をとったりしている。
 宝くじと聞いて、人の好さそうな笑みを浮かべた爺さんが記憶の中から滲み出てくる。
 榊原さん。三ヶ月前まで一緒に現場で働いていた同僚だ。宝くじに当たり、悠々自適な隠居生活を送るべく退職した。当選金は億単位にのぼるらしい。
 ――と、目の前にいる後輩からそう聞いている。
「引っ越したというが、またどこの情報筋だ?」
 退職の理由や宝くじに当たったことを、榊原さんは誰にも明かさなかった。にもかかわらず、この後輩が知っていることに、俺はきな臭いものを感じていた。プライベートで付き合いがあるならまだしも、そんな気配など毛ほどもなかったからだ。
「探偵でも雇ってんじゃないだろうな?」
「な、なんでそこまでしなくちゃならないんすか!」
「そんなの俺が知るワケないだろ」
 とにかく、と後輩は仕切り直すように言った。
「宝くじに当たったこと、どこからか漏れちゃったみたいで。怪しげな募金団体やら宗教団体やら、それまで付き合いのなかった親戚たちにまで押しかけられて、うんざりしちゃったみたいっすよ。それで」
 ご近所さんが気づいたときにはもぬけの殻。夜逃げどーぜん。
「ま、引っ越すのがいちばんっすけどね。海外じゃ事件にまでなってるみたいっすから」
「事件?」
「強盗殺人すよ。怖いっすよねえ」
 そう他人事のように言って、後輩は「それにしても」と肩を竦めた。
「榊原さんの想像してた隠居とは、程遠いものになっちゃったみたいすね」
 たまに飲み物をおごってくれたこと。仕事で失敗したとき励ましてくれたこと。榊原さんとの思い出が次々と浮かんでは消えていった。
「……失うもんもあったが、それくらい得るもんもあったんだ。イーブンだろ。俺なら失うもんを考えたら晩酌のビールで充分だな」
「で、そのビールいくらなんすか」
「235円」
 ちっちゃいっすねえと、後輩は声を上げて笑った。

3/29/2025, 3:35:06 AM