NoName

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♯涙


 初めは私だけだった。
 鍵盤の上で踊る彼の指を見るのも。奏でられる彼の音色を聴くのも。
 けれど彼の腕が上達にするにつれて、どんどん人は増えていった。
 気づけば、私は大勢いる観客の中のひとりになっていた。
 
 燦々と降りそそぐ光の中で、ピアノを弾き続けるひとりの青年。
 会場を埋めつくす人々の合間から、すんすんと洟を啜る音が聞こえる。
 嬉しいわけではなく哀しいわけでもない。だからといって憤っているわけでもなく可笑がっているわけでもない。
 流れるような旋律が創りだす色彩豊かな世界に、人々ははらはらとこぼす。『美しい』という、もっとも純粋で無垢な涙を。
 ――初めは、私だけだったのに。
 彼は弾き続ける。
 彼の演奏を聴くためにチケットを買い、会場まで足を運んでくれた大勢の人々に向かって。
 冷たいものが私の頬を静かに落ちていく。
 それは、なんだかしょっぱい味がした。

3/30/2025, 12:16:32 AM