「風景 ある女の午後」
水道の口から飽和した水滴が垂れ落ちる。わずかな波紋の音すら聞こえるほどに、整然とした部屋は沈黙に支配されていた。
リビングルームのソファには、華やかな装いに反して生気のない目をした女がぽつんと座している。大きなテレビと、ガラスのテーブル、隅に飾られた観葉植物。どこかショーケースじみた空間だ。
遠くで夕方を知らせるチャイムが鳴って、賑やかな子供の声と犬の鳴き声。空虚な部屋は、窓もカーテンも閉ざされたままだ。締め切られたはずのその空間に、くぐもった幸福がシン…と響いていた。
「風景 ある男女の夜半前」
恰幅のいい男がいた。どっしりとした肩や腿だ。ジャケットを持った女を傍に控えさせ、その男は席につく。丁寧にラップのかかった食事に手をつけると、ごく自然な動作で中身をテーブルへぶちまけた。女が呆気に取られる間もなく、男は食器を投げ捨て、振り返りざまに女の頬を叩いた。女の瞼は開いているし、男は女を見下ろしているが、互いの表情は見えていなかった。ひどく乾いた、灰色の時間だった。
「深夜 『 』の感情」
豆電球が眩しい。暗闇は怖い、夜はとにかく長いから、怖くない方法を探してる。祖母がくれた毛布だけがあたたかくて柔らかい。薄く喧騒が聞こえる。ここがどこか分からなくなっていく。息苦しくて、どこにも行けなくて、背を丸めながら目を閉じる。母が布団に潜り込んできた。泣いている、怒っている、悲しんでいる。明日は7時に起きなくちゃ、
「???」
一時停止のない物語。命があって、心があって、そこには真実があるはずで。現実には、人には、もっと信じられるだけの価値があるとそう思いたくて。でもひたすらに流れ続けるのは、魂の抜けた風景、風景、風景ばかり。
「風景」
ほんとうの闇にしか寄り添えない夜があるけど
ほんとうの光にしか救えない朝を探してしまうから
君を救えない僕は
君を救う誰かが
僕の影も埋め尽くして
白く焼きついたフィルムみたいに
ぜんぶぜんぶ なかったみたいに燃やし切るのを
呪うように 祝うように 待ち続けている
「君と僕」
地獄で待ち合わせしようよ、遅刻したっていいから。
取り立てて悪いことはしていないと思うけど、募金箱から目を逸らしたり、影口に頷いて見せたりするくらい。
広大な世界について考え出して、人1人の強さと弱さを反芻しながら、あったかい家を守るのはなんて難しいのかしら……と瞼を伏せるだけ。
ライフプラン、将来設計、目標、やりたいこと、憧れ。
ある、あるのだ。しかして叶えるために踏み出すことは、怖すぎる。
クシャッとしたレシートが溜まった財布を持って、ほどけた靴紐を特段気にせず歩く。小銭はうまく出せず、階段で躓くけれど、全部まあ仕方のない、仕様のないアタシ……と嘯いて終わりだ。
深く考えて何になる。優しくも正しくも美しくもあれない。肥大した自我ばかりが目につくのに。
でもそれが、人間らしくて良いじゃない。
生きるなら何かを奪い続けることは宿命であって、それは悲観する理由としては足りないの。
嫋やかに桜は咲いて、澄んだ水の流れは地を繋ぐ。
奪い奪われ、連鎖の中に芽吹き、枯れ、また何度でも巡り続けることの美しさ。
歯車になれない私たちは、システムにとって有害で、それでも自ら絶えることもできずに足掻いている。
肯定したい。未だ何者にもなれない、有害で障害である私を。あなたを。
綺麗は穢い。穢いは綺麗。天秤の傾きを、前から見るか後ろから見るかの差異なのだ。
ありのままの美しさを肯定して、もっと先へ駆け抜けて、穢さすら愛してみせたい。
このまま地獄に堕ちてもいいよ、怖くないって思えそうだから。
そうしたら地獄でさ、待ち合わせでもしてみようよ。私とあなた、どちらが遅刻してもお咎めなしで。
あなたの美しさを信じて、私の美しさを信じて、今はただ愛のために歩み続ける。
この果てにある愛という途方もない夢へ!遠く煌めくまぼろしへ。泥濘の中に咲く私たちが、瞬きほどの人生で、1番強い恒星の光に灼かれることを、許されたいのさ。
「夢へ!」
金魚を飼っている。名前はつけていない。
同居人が祭りから連れ帰ってきた小魚ちゃんは、フナ感満載で"ウオ"っぽくなった。手のひらよりはまだ小さい。
酸素ポンプのバッテリーは壁に干渉するとかなり耳障りだけど、ポコポコと泡の吹き出すところを見るのは好きだ。ゲーセンの二階建てになった小さめクレーンゲームでとれるような、シリコンのマスコットなんかをオブジェに沈めて、子供っぽい水槽に仕上がっている。
犬猫より手間もないし、明日お別れになっても多分泣かない。すべての命が横ばいの平等ではないし、だから私たちはきっと生き残れたのだろうし……。共に過ごす時間、生命を保証してくれるものへの依存。愛をつくるのはなんだろう。
私が金魚を見る時、私の中身は水槽に生まれる泡沫と、なんとなくいつも同じ速度になる。
金魚に感情があるかはわからない。私の感情もつまりそれが本当のところなんであるか、いつまでだってわからないまま。
金魚は人が近づくとパクパク忙しなくなる。私の脳内とか関係なくて、それくらい距離がある事実が安心をくれる気がした。
野菜入りの健康フードをがっつく金魚。良きかな、良きかな、元気かな。
「元気かな」
19歳、兄の車のドアをガードレールにぶつけた。
夜中で暗かった。隣の兄がうるさかった。カーブがきつかった。
免許、取ったばかりだった。
兄はいつも私に激しく絡んで、いたずらに怯えさせたが、私はどうにも兄から離れられずにいた。
兄は破天荒でおかしくて、理解不能なのに、時々とても嬉しそうに私に構って、家族として愛した。
たまたま視線があっただけで、生意気な目つきだと怒られたあの日
兄の顔は猛獣のようにギラついていた。
脈絡なく好きだろ、とチョコレートを投げ渡してきたあの日
兄の顔は私のありがとうと嬉しいを確信している、得意げな笑顔だった。
父と母に捨てられないように、正しさを追いかける私を置いてけぼりにして、兄は力強く周りを壊して己を貫いた。
私のことも壊した。
首を絞めて、壊した。
動物社会の王みたいに、恐れ知らずに暴れる姿は力強くてバイオレンスで
また誰もが持つ悪意を、当たり前のようにさらけだして傷付けても傷付かない。
でも兄は生粋のエンターテイナーでもあった。
いつも彼の周りには人が絶えず、笑い声で満ちた。
問題を起こしてどれほど最悪な人間と嫌われても、全てわかったうえで2、3人の人間は、兄を拾い上げた。
厳しく愛して背中を押す、まるで親のような情を、兄はその2、3人から引き出して、ふと気がつくと人の輪の真ん中に再び立っている。
でも繰り返しでしかなかった。
兄は何度でも問題を起こして、起こして起こして起こして起こして起こして起こして起こして起こして起こして起こして起こして起こして、
そうして、少しだけ落ち着いた。
あの夜、車貸してやるから行こうぜ、と兄は笑った。
自分で買った車を、兄は躊躇なく私に貸した。
下手なら笑ってやるよと馬鹿にして、実際ずっと文句ばかり言うのに、隣に乗って私を見てた。
目の前にガードレールが迫って、その時止まれば間に合ったかもしれないのに、止まれなかった。
ブレーキの存在はわかるのに、アクセルを踏む足がそこから隣へと動けずに、ハンドルを回せば避けられるような、まだ間に合うような、そんな気で、
ほんとはもうだめそうなのも、わかってたよう、な、
後部座席のドアが、内側にボッコリと凹んだ。
私は兄が憤慨すると思った。頭の中の兄はもう憤慨して罵倒まで始めていた。
それなのになぜか、この夜の兄は、大丈夫だと言ってただ大きく笑ってみせた。
修理代も請求しないと言い、また貸してやるとすら口にしたのだ。
仮に大丈夫と言ってお金まで負担するなら、罵倒や叱責も必ずあるだろう、あって当然だと謝罪しながら泣く私に、兄はこの夜だけはいつまででも味方でいてくれた。
修理代を出すと何度いっても、良いの一点張りで、結局受け取ってくれなかった。
この夜が明けたら、兄は相変わらず私をあらゆる方向性からいびり始める。車の破損も責めてくる。
だけど私からお金を受け取らない。
兄はきっと心配なのだ。弱くて不甲斐ない私のことが。
だから私、もう大丈夫だよって伝わるように、修理代を渡すならどうすればいいか考えて思いついた。
初任給から返そう。兄はどう言っても良い、良いと頑なだから、私だけは未来の私と、そう約束する。
もう大丈夫だよ、私は一人でも生きていけるんだよと兄に示すため。
「約束」