おさしみ泥棒

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2/25/2026, 8:12:55 PM

 顔を上げたら、ガラスに雫が伝っていた。いつのまに降り出したのだろう。文庫本を置いて、窓の外を眺める。鉛色の空から糸のように細い雨がさあさあ降り注ぎ、眼下の街には色とりどりの傘が咲いている。
 思い返してみればたしかに、朝の時点でなんだか物憂げな空模様だった。折り畳み傘でも持っていくべきだったかもしれない。

 とにかくこれでは帰れない。どうしたものかと考えながら、カップに口をつける。本はたった今読み終えてしまった。コーヒーも残り少ない。このままここで雨がやむのを待つのは、少々退屈だ。

 俺は少し迷った末に、鞄からスマホを取り出した。アプリを開いて、メッセージを打ち込む。

『傘を持ってきてほしい。駅前の喫茶店』

 送ってから数秒で既読がついた。さすがだなと感心する。彼はいつも、メッセージに気づくのが早い。
 それからすぐに、敬礼しているゴリラのスタンプが送られてきた。『了解』ということだろうか。彼はこのシリーズのスタンプをよく使う。気に入っているらしい。

 それにしても、頼もしい。やはり持つべきものは、傘を忘れたときに駆けつけてくれる同居人だ。
 普段なら面倒臭がりそうなものを、二つ返事で承ってくれたから、少し驚いた。俺が家を出るときは、ソファにだらしなく寝転んでテレビを見ていたのに。

 もしかして何か見返りを期待しているのだろうか。そこまで考えて、合点がいく。さては俺に何か奢らせるつもりだな。食い意地の張っている彼にとっては、喫茶店というのが魅力的だったのかもしれない。クリームソーダにナポリタン、サンドイッチ、カレー。いったい何を要求してくるだろう。

 そうなれば仕方がないから、一品くらいご馳走してやろう。わざわざ傘を届けてくれるのだから。
 もしかしたら、食べている間に降りやんでしまうかもしれない。それはそれでいいだろう。雨上がりの、洗いたてのような世界が好きだ。虹でも見れたら万々歳。空をうつした水たまりを避けながら、彼と並んで帰るのもまあ、悪くはない。

【テーマ:物憂げな空】

2/16/2026, 11:22:25 AM

「世界中の誰よりもお前を愛してる」

 同居人はまっすぐな目をして言った。俺は呆然と目を瞬いて、その双眸を見つめ返す。突然何を言い出したんだこいつは。どっかに頭でも打ったのか。

「って、俺が言ったとするじゃん」
「え?」
「俺がお前に『世界中の誰よりもお前を愛してる』って言ったとするじゃん」
「おお……?」
「この場合の『誰よりも』って、どこに掛かってるんだと思う?」
「ん……?」

 同居人は真剣な顔で俺を見ている。突如として愛の告白をされたかと思えば、よくわからない疑問を投げかけられた。戸惑いつつ「どういうこと?」と聞き返せば、同居人は「だから」と言って、右手の人差し指をぴんと立てた。

「俺がこの世で一番好きな人間はお前ですってことを言いたいのか」

 続けざまに、左手の人差し指を立てる。

「この世で一番お前のことを好きな人間は俺ですってことを言いたいのか」

 両の人差し指の間で、同居人はなおも神妙な面持ちをしている。

「これどっちだと思う?」
「…………」

 こいつは何を言ってるんだ。

「何を言ってんの?」

 俺がそうたずねると、同居人は物わかりの悪い奴だとでも言いだけに、小さくため息をついた。なんだこいつ、と眉を寄せる俺をよそに、同居人は「いやだから」と続ける。

「ここでいう"世界中の誰か"の比較対象は、俺なのかお前なのかっていう話だな」
「……?」
「"誰か"との比較対象が"お前"の場合、俺はこの世に存在する人間、例えば自分の家族や恋人に向ける愛よりも、お前に向ける愛のほうが強いってことになる」
「…………」
「対して、"誰か"との比較対象が"俺"の場合、この世に存在する人間の中で、お前に対する愛が最も強い人間は俺ってことになる」
「はあ……」
「つまり前者は"俺が愛してる人間ランキング第1位=お前"。後者は"お前を愛してる人間ランキング第1位=俺"。わかった?」
「……まあ、言いたいことはなんとなく」
「これどっちだと思う?」
「……心底どっちでもいいが、とりあえず"愛してる"の仮定に俺を置くのをやめてくれ」

【テーマ:誰よりも】

2/14/2026, 4:02:43 PM

「ごめん尾上。俺貰っちゃったわ」

 佐倉は勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、俺の眼前にそれを突き出した。赤いリボンでラッピングされた、ハート型の小さなチョコレート。

「お母さんから?」
「お母さんからじゃねえよ。どう見ても本命だろ」

 たしかに、お母さんがお情けでくれるタイプのチョコではない。
 義理チョコだったらまず手作りはしないだろうし、チョコはハート型で、丁寧にラッピングまで施されているのだから、きっと正真正銘の本命チョコだ。

「……じゃあ誰から?」
「後輩の女子」
「部活の?」
「そ。顔真っ赤にして渡してきてさ、受け取った瞬間にすぐ走っていっちゃって」

 あれかわいかったなあ、とかなんとか言ってる佐倉の鼻の下は、完全に伸びきっている。こいつ殴ってやろうかな。初めて女子からチョコを貰って、こいつは明らかに調子に乗っている。

「なんか俺だけモテちゃってごめんね?」
「貰ったの1個じゃモテてるって言わなくね」
「0個の奴に言われたくないけど」
「いや俺だって1個は貰ったし」
「え!?」

 嬉々としてマウントをとろうとしていた佐倉は、途端に顔色を変えた。愕然としたように「マジで?」と聞いてくる。こいつは1つも貰えていないに違いない、とでも思っていたらしい。舐められたもんだ。

「え、誰から? お母さん?」
「お母さんじゃねえよ。下駄箱に入ってて、誰が入れたのかはわかんない」
「嘘じゃね?」
「嘘じゃねえよ。ほんとに入ってたから」
「じゃあ今見して」
「…………」

 ため息をついて、鞄の中を探る。そうして引っぱり出したものを佐倉に手渡した。

「ほら。嘘じゃないだろ」
「…………」

 佐倉は手の中のそれをしばらく見つめてから、怪訝な顔で言った。

「これボンタンアメじゃん」
「そうだよ」

 ボンタンアメ。昔ながらのお菓子。オブラートに包まれた、オレンジ色の四角いもちもち。

「みんな大好きボンタンアメ」
「いやまあ、美味いけど。バレンタインにボンタンアメあげる奴いないだろ」
「それはそう」

 今朝下駄箱をのぞいて、上履きの傍らにボンタンアメの箱が置いてあるのを見たとき、わけがわからなかった。なんでこんなところにボンタンアメが、と思って、ちょっと考えてからようやく「もしかしてバレンタイン?」と思い至った。
 差出人はいったいどういう気持ちで、バレンタインの贈り物としてこのお菓子をチョイスしたのだろう。本命か義理かもわからない。
 と、ふいに佐倉が口を開いた。

「お前さ、最近おばあちゃん助けた?」
「は?」
「街で助けたおばあちゃんがお前に惚れて、ボンタンアメを贈った可能性はない?」
「何言ってんの? おばあちゃんどっから来た?」
「ボンタンアメってなんかおばあちゃんがくれるイメージだから」
「そうか?」
「差出人はお前に惚れてるおばあちゃんの可能性が高いな」
「マジで……?」

 非モテの俺はバレンタインに誰かから贈り物を貰うことなんて初めてだから、本当は手放しに喜びたいのだが「バレンタインにボンタンアメ」という不可解さが邪魔をする。もしかしてこれは、何らかのメッセージなんだろうか。ボンタンアメを介して、誰が何を伝えようとしてるっていうんだ。

 俺と佐倉は下校時刻になるまで教室に居残り、バレンタインボンタンアメ事件についての考察を繰り広げたが、結局、結論は出ずじまいだった。

【テーマ:バレンタイン】

2/10/2026, 3:43:59 PM

 誰もがみんな、少なからず消し去りたい過去を抱えているものだ。日常のふとした瞬間にそれらを思い出して、たまらず奇声を発したり、ベッドの上をのたうち回ったりすることは多々ある。

 いやいや、みんなはそれほど他人のことを気にしていない。あなたが恥ずかしいと思っていることも、周りからすれば取るに足らないことだろうし、きっと誰も覚えちゃいないよ。もう一人の自分が、そんなふうにやさしく語りかけてくる。それもそうだなと、私は無理やり納得する。

 忌まわしき過去はさっさと思考の外に追いやって、おいしいものでも食べることにしよう。確か冷蔵庫にケーキがあった。苦々しい記憶も、甘ったるい生クリームでまるごと上塗りしてしまえばいい。

 ショートケーキは幸福の味がする。ひとくち食べれば、なんだかどうでもよくなった。どんなに恥ずかしい過去があろうが、今この瞬間はおいしいケーキを食べて幸せを感じているのだから、結果オーライ。
 むしろ「恥さらし上等」の気持ちで生きたほうが健全なのかもしれない。過ぎたことを気に病んでクヨクヨするよりは。

 そうは言っても、やはりクヨクヨせずにはいられないのが私という人間だ。きっとこの先も、過去の自分の痛々しい言動を思い出すたびに発狂しては、発作のようにケーキを喰らう日々を繰り返すのだろう。
 コージーコーナーに足繁く通い、自宅の冷凍庫の引き出しを保冷剤でパンパンにする。それが「生きる」ということだと、私は思う。

【テーマ:誰もがみんな】

2/8/2026, 12:20:34 PM

「ちょっとこれ見てください」

 向かいに座った真田さんにスマホの画面を見せると、真田さんは素直に顔を上げた。
 俺がチョイスしたのは、猫がキュウリにびっくりする動画だった。俺はわくわくしながら真田さんの反応を盗み見たが、彼は依然として真顔のままである。
 やがて「これ何ですか?」と聞いてきたので「猫がびっくりする動画っす」と答えたら、至極興味のなさそうな「へえ」が返ってきた。

「面白くないですか?」
「面白いっていうか、びっくりしました」
「びっくりするんすか?」
「猫がこう、急にびよーんってなったから」

 一応、そこがこの動画のおもしろポイントではあるんだが、どうやら真田さんのツボにはハマらなかったらしい。結果、今日も今日とて、俺のチャレンジは失敗に終わった。

 最近の俺の挑戦。それは、バイト先の先輩・真田さんを笑わせること。
 真田さんの素性は謎めいている。店長は適当な人で、真田さんについて聞いてみても「普段なにやってんのかはよく知らない」とのことだった。
 年の頃は二十代後半。細身で、銀のフレームの眼鏡をかけていて、どことなく神経質そうな印象がある。口数は少なく、表情もあまり変わらない。何を考えているのかいまいちわからないし、休憩が被ったときは会話が続かなくて気まずい。そういう理由で、俺は正直、真田さんのことが苦手だった。
 けれども最近、ある出来事をきっかけに、真田さんを見る目が変わった。

 先月、同じく先輩である森さんが、みんなにおはぎを配っていた。なんでも森さんは料理が趣味らしく、おはぎを手作りしたものの、うっかり作りすぎてしまったらしい。
 俺は喜んで貰って、さっそく休憩時間に食べることにした。ラップを剥がしながら、なにとはなしに向かいに座った真田さんをちらりと見ると、ちょうど真田さんもおはぎを食べているところだった。
 勝手なイメージで、真田さんは人の手作りが無理なタイプだと思っていた。意外だなと思いつつ見ていると、視線を感じたのか、真田さんもこっちを見た。目が合って、なぜか焦った俺は、咄嗟に真田さんに向かって「おいしいですか」と尋ねた。
 真田さんは目を瞬いてから、ちょっとはにかんで「おいしいですよ」と言った。その唇には少しだけあんこがついていた。
 そのとき俺は、真田さんの笑顔を初めて見た。真田さんって笑うんだ。おはぎを食べて「おいしい」とか言うんだ。俺はなんだか無性に感動して、それ以来、ちょくちょく真田さんに話しかけるようになった。真田さんは、相変わらず無愛想ではあるけれど、話しかければそれなりに答えてくれた。

 あのときの笑顔をもう一度見たい一心で、渾身のすべらない話を聞かせたり、変顔をしてみたり、ネットで見つけたおもしろ動画を見せたりするのだが、真田さんは一向に笑わない。
 他の人に聞いてみると、真田さんが笑っているところを見たことがある人は一人もいないのだという。つまり、真田さんの笑った顔を知っているのは俺だけ。
 そんなSSR笑顔を引き出したくて、俺は日々奮闘している。明日はどんな手を使おうか。自転車で帰路を辿りながら、あれこれと考えを巡らすのだった。

【テーマ:スマイル】

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