何年か前、一人の友人がいた。当時の職場で知り合った人だ。可愛らしい、真面目な人だった。
第一印象は怖かったけれど、とても優しい人だと知って好きになったのだと告げられた。
やめた方が良いと何度も忠告しつつ、気が付けば3年も曖昧な関係が続いていた。
頻繁に互いの家へ行き来し、手料理を振舞ってもらい、同じ映画を観ては感想を語り合う。傍から見ればお似合いのカップルだったそうだ。
しかし友人とは根本から違っていた。家族に対する想いも、経歴も、能力も、人間関係も、何もかも正反対で、自分はただ友人を否定せず、友人も自分を否定せずにいただけだった。
無理難題の問題に対して友人は解決しようと日々思考を巡らせていた。かくゆう自分は逃げに徹していた。どうしようもない問題だと散々わからされていたからだ。
そしてある日、友人は実家に帰ると切り出した。限界を迎えたそうだった。
地獄に慣れてる自身でさえ気が狂ったんだ。根をあげても仕方がなかった。
誰も、自分でさえも、誰ひとりとして助けられないんだ。
友人が目の前から去って、少し気が楽になった。大切な人を巻き込むことに、裏切りだと恨んでしまうことに、罪悪を感じることにもう疲れたんだ。
今の部屋は延々と静まりかえっている。手作りの料理がテーブルに並ぶことはもうない。
このまま独りにさせてほしいという小さな呟きはすぐに壁へと吸い込まれて消えていった。
ようやっと秋がきた。暑がりで寒がりという我儘な体質には有難い季節だ。
頭痛を引き起こす陽光は謙虚になり、肌寒さを免罪符に全身を覆い隠すことができるこの時期が一番好ましいとしみじみ感じる。金木犀の香りだってそうだ。
気が付けば現れ、気が付けば消える。こう考えると秋と金木犀は一蓮托生なのかも知れない。
ずっと続けば良いと平々凡々な願望を持つが、我々には慣れというものがある。秋独特の暗さも温度も、金木犀のあの甘い香りも慣れて何も感じなくなる未来が訪れてしまうのなら、今のままで良いのだろうか。
少しばかり悩んだ後、改めて思った。
夏や冬の苦しみが無くなるのなら秋に慣れて何も思わなくなっても構わないか、と。
とある幼子にはふたりきりの時にだけ話す存在が居た。きっと生まれてから傍についていた姉が亡くなったことが影響したのだろう。所謂イマジナリーフレンドというものだった。粗悪な家庭環境のなか、独りでも平然といられたのは空想の友人のお陰だったとも言える。
そんな中、更に幼子に不幸が襲いかかる。
小学校にあがる頃、まだ幼子は未熟だった。本来年相応に携わるはずだったコミュニケーション能力が欠如していたのだ。良く言えば大人しい、悪く言えば暗い子というのが他人から見た幼子の評価だろう。
幼子は早々に虐めの標的にされた。具体的に言うなれば虐めっ子と呼べる1人に目を付けられたのだ。小学生特有の幼稚な内容ではあったが、いつまでも続く虐めに幼子の心は蝕まれていった。
空想の友人は励まし続けたが、幼子は限界を迎えた。
学校からの帰り道、ふたりきりの会話が途切れた交差点で、幼子は消えた。決して神隠しではない。身体は青色の信号を眺め直立していた。幼子の精神だけが何処かへ消えたのである。
突然の事態に驚いた架空の友人は幼子を守ろうと咄嗟に交差点を渡り、帰宅した。
それから間もなくして虐めっ子が転校し、虐めから解放された友人は幼子のことを想い努力を続けた。他人からの評価が前述から面白い、明るい子と著しく変化する程だった。
10年以上の時が経つが、幼子は帰って来ていない。あの交差点を通る度、辺りを見渡そうが名前を呼ぼうが見つかることは遂になかった。
そして身体はもう、とっくに馴染んでしまった。
そうして形のないものだった友人は実在する本人と成ったのである。
大学生になると同時に化け物の元から逃げ出そうと一人暮らしを始めた。
しかし、ほんの数ヶ月で化け物は己の立場を利用して大学の教師連中を味方にし、こちらの居所を突き止めた。
その頃から声が止まない。
外から物音がする度、化け物共の足音が、唸り声が聞こえてくる。
来る。向かって来る。
こちらが消えるか、あちらを消すかしなければ一生逃れられない。
そんな思考が落ち着く頃にはいつも部屋中が荒れ果てていた。
学歴も友人も皆捨てて半ば蒸発するかたちで姿を眩ました。
今の家ではもう声は聞こえない。
静か過ぎるくらい何も聞こえなくなった。
またあの声が聞こえたらと考える度、心臓の音がバクバクと煩く鳴っていた。
友よ忘れておくれ。
思い出の品々はもう灰と化してしまった。
せめて空想でも納得しておくれ。
見知らぬ土地で見知らぬ誰かと添い遂げてるだろう。
いっそ書換えておくれ。
こんな奴など初めから居なかった。
友よ、どうか、ゆるしておくれ。
貴方達の幸せを永遠に願っている。