泥まみれ枝まみれ枯葉まみれのお嬢様。
聞けば登って降りられなくなった猫を助けていたらしい。
結果今度は自分が降りられなくなって頭から落ちたと聞いた。
馬鹿だ。大馬鹿だ。
「貴方はどうしていつもそうなのですか、全く」
「せっかく元気満天、健康健全、傷も病気もすぐ治る体になったのですもの、全力で使い倒すのが正しいと思うのだけど」
「それにしたって限度があるでしょうが」
「欲を言えば腕力がもう少し欲しいところですわね……膂力と言い換えるべきかしら、握力脚力……あらゆる筋力が欲しい……」
「私としては無くて良かったと思っています心から」
「そうね、もしあったら子猫さんに怪我をさせていたかもしれないし」
「できれば貴方自身の怪我も考えて欲しいんですけど」
「治りますのに」
「……痛くはないんですか」
「あ、えぇと…そうですね、痛いですね」
「ならいいんですけど」
痛いのは誰だって嫌じゃないですか、と続けたが複雑な顔を返される。
「ひょっとしてお嬢様まさか痛いのが気持ちいいとかそういう……いや個人の趣味は否定しませんけど」
「決してありませんわ!!そうではなく、あの、笑わないって約束をしてくださる、なら」
「私がお嬢様の事を笑うわけないでしょう」
さっさと白状しなさいよ。促せば顔を真っ赤にして視線があっちこっちに泳ぎ出す。おい約束しただろ。吐きなさいて。
「……私は生まれてから先日まで、ほとんど布団の中にいました。調子のいい日は邸内のお散歩をしましたが、庭に出た事はありませんでした」
「存じております」
「部屋の空気とお庭の空気って、あんなに違うものだと私は知りませんでした」
枯れ木のような腕を天井に伸ばす。包帯に包まれた腕を伸ばした先にあるのは、部屋から出られなかったお嬢様のために旦那様が職人に造らせた特別製の水槽。鯉や金魚、見目麗しい観賞魚が生き生きと泳ぎ回っている。水槽のない場所には妖怪やら幻獣やらの生き物が所狭しと描かれている。
「土の匂いも草木の匂いも雨の匂いも初めて知りました」
お嬢様は細い。そして軽い。力もない。数歩歩けば息が切れ、走る事など夢のまた夢。全身を病魔に蝕まれ、15まで生きられないだろうと言われていた。全ては過去の話だ。現に今日お嬢様は庭を走り回り木に登り頭から落ちた。はしゃぎっぷりが馬鹿である。この人こんなに色々やりたかったんだなと改めて思った。
いつも寝ているか本を読んでいるかの姿しか知らなかった。
当たり前である。それ以外出来なかったのだ。
日に当たることも風に当たることも誰かに触れることも体調が崩れるきっかけになった。水さえ飲めない日があった。果物ならどうだと食べさせれば吐き戻し、喉の血管が切れたのか血が混じることもあった。この世の全てがこの方を殺そうとしていた。
「いつもお父様や貴方や、いろんな方が私によくしてくださいます、私は何も出来なかったのに。本当に、何も」
この方が今日まで生きていられたのは純粋に運が良かったから。
何不自由ない家に生まれたこと。子供を愛する親に恵まれたこと。病弱で何も出来ない娘を虐めたり乱暴する人間に巡り会わなかったこと。親の手掛ける事業が成功していること。その中で優しくうつくしく育てられたこと。他人に陥れられたりしなかったこと。吹けば飛ぶような体躯で、災害に見舞われなかったこと。
この世の全てがこの方の味方をしていた。
「何も出来ない事を知っていました。ですがこの通り、今ならなんでも出来ますわ」
「うーん、とりあえず両腕の包帯が取れてからにしましょうかね」
「大体この下だってもう無傷ですのに……痛みもありませんわ、もっとこの包帯を必要とする方がいらっしゃると思うけれど」
「直近ではいません」
「打った頭だってもう痛くありませんわ!」
「カチ割った頭の間違いなんですよね」
「もう元気です!」
「危なっかしいんですよアンタ!!もう今日は寝ていなさい!」
「むぅ、治りますのに」
「なんでそう色々やりたいんですか……午前は飯炊きで火傷したって聞いたし、日中は畑手伝ったって言うし、好きなんですか、そういうの」
「……ずっと、助けてくれるあなた方の助けになりたかったと言ったら、笑いますか?当主の娘がやる事ではないと言われました。ですが知りたかった。あなたがたが当たり前とする事は私にとって全く当たり前ではなかった。私はあなたがたに何を返せば当たり前になるのか、わからなかった」
「元気になったんですからそうですね、いい娘さんになっていい婿連れてきてもらって、尻に敷いて、ついでに私らの給金が上がればいう事なしですかねぇ」
「でもすぐは無理でしょう、お見合いは来週からですし」
「まぁ1人目がいい人とは限りませんからねぇ…あの旦那様の眼鏡に叶う相手ならまぁよっぽど変な人では無いんでしょうけども」
「結局私からあなたがたに直接返せるものでは無いし」
私達使用人とてお嬢様にお仕えしているわけでは無い。厳密に言えば旦那様、ひいてはこの家だろうか。まぁ代が変わっても仕えつつける所存である。新しい旦那様がクソ野郎の場合再教育も視野に入れている。その程度にお嬢様は好かれている。まぁ半数以上、お嬢様がお生まれになる前から仕えている。つまりずっと成長を見守ってきた人ばかりである。幸せになって欲しいと、思っている。
「私から直接返したかったんです、いままで頂いた心を」
そう言ってお嬢様は花のように笑った。
ああ、この人は。本当はこんなふうに笑うのか。
「は、そんなのはこれからずっと時間があるんですから、ゆっくりでいいんですよ」
「こうしてる間にも時間は過ぎていきますのに……」
「大丈夫ですよ。明日も明後日も、ずっと私たちはいますから」
そうしたらまたくすくすとお嬢様が笑う。
「そうですね。明日も明後日も、私きっと元気ですから」
新しい当たり前。目が覚める事、明日があること。
お嬢様が14になったあの日からずっと脅かされてきた明日。
これからはずっとある。当たり前にそこにある。
これ以上のしあわせは、きっとどこにも存在しない。
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私は馬鹿だった。お嬢様のことも言えない出来ない大馬鹿者だ。
知っていたのに。あの方が嘘つきであることを。
自分が何も出来ない事を苦にしていたことも、いつも私達に気を遣っていたことを、知っていたのに。
我慢はいけないと、あんなに口を酸っぱくして言っていたのに、また貴方は1人でそうやって我慢をしていたのですか。
「いつも貴方が最初ですわね、私の嘘を見抜くのは」
血の気の失せた顔でお嬢様が笑う。口元に赤が滲む。吐き出された血の中に小さく浮かぶのは歯だろうか。目を見張るうち赤は蒸発し、お嬢様の歯も砂城のように崩れて消えた。
「何が起きて、いるんですか」
「多分あまり良く無いことが起きてますわね」
「そんなの言われんでもわかりますよ!!」
「使用人全員にすぐ逃げるように伝えてくださる?何も返せなくて本当にごめんなさい。最後まで何も上手くできませんでしたね、本当に……ごめんなさい」
「お嬢様、やめてくださいそんな事を言わないで」
「ほら早く、私は平気ですから、ね?」
新たに口から流れる血を拭う。歯を食いしばって、耐えている。血と流れるこれは、唾液か?なんで、どうして、唾液なんか。
まるで目の前の獲物に食らいつかないように待てを言い渡された獣のような、
「うぅあ、うううう、」
「お嬢様、どうかしっかり、」
「気の持ちようでどうにかなるものじゃねェよ、それは」
この家に支えて12年、ただの一度も聞いた事ない声が響く。
「病にかかっていた娘が突然元気になっておおはしゃぎ、まではまぁわかるにしてもよ、骨折しても頭蓋骨陥没でも瞬きのうちに元通り、はおかしいだろ——-もてよ違和感をよ」
涼しげな目元、背負うは大太刀。真っ赤な組紐を靡かせて振り下ろされたそれが、お嬢様を真っ二つに切り裂いた。
ばらばらと、びちゃびちゃと生暖かく降り注ぐそれが先程までお嬢様を構成していたと信じられずに固まる。その血液も内臓も瞬きのうちに元通り。それを見た男は機嫌が悪そうに舌打ちを一つ。
「選べ。今ここで死ぬか、化け物として永遠に死に続けるか」
そんなのどう違うんだ。目の前で最も容易く行われた殺害が再び行われるかもしれない恐怖、どちらにせよ幸せな未来などあり得ないと理解した悔しさ。がちがちとなる奥歯がうるさい。
どうして。どうして奪われなければならない。
何か不相応を望んだわけではないはずなのに。
どうして、当たり前に生きることがこんなに難しい。
どうしてこんなに、この方が生きるだけのことが難しい。
「突然何なんだよ、なんで何が起きてるかだってわからないのに、何を選べって言うんだよ!」
「こういうのは、突然起きるモンなんだよ」
日常が日常のまま機能し続ける保証なんてどこにもない。
「それともお前は永遠に変わらない平和が続くとか思ってたのか?こんな、いつ死ぬかもわからない娘ッ子を見ながら?」
思っていた。元気になってほしいと思いながらこれ以上悪くならないでくれと願いながら、明日も明後日も続くものだと思っていた。騒ぎを聞きつけた使用人の足音がどんどん増えてきたのを遠くに聞きながら、私の意識はどんどん遠くなっていった。
当たり前。当たり前など。どこにも存在しなかった。
街灯っていいな
夜は明るくて安心できて
昼間は点いてなくても邪魔じゃないしなんならちょっとかっこいいデザインのものが多いし
私みたいに何やっても何やらなくてもお荷物って事ないもんなーーーー!!!!!
立てば躓き歩けばぶつかり座っていても周囲の邪魔!!
どんくさい巨躯。ウドの大木。建て付けの悪い扉。
体力もないし持久力もないし筋力もない。
私についているのは脂肪です。
走ったらすぐ息切れするしご飯の量は食べれない。
そんなにデカくて食べないの!?って何回驚かれたことか。
お菓子もそんなに食べられないし。
ポテチは3回くらいに分けて食べる。
あんまり食べるとご飯が入らなくなるから。
飲み会も苦手。社会人になって新入社員歓迎会とかあったけど最初の1回か2回くらいしか行ってない。人と話すの苦手だし。うまく返せないし。どう返そうか考えてる間に他の人が返して話題変わるし。そんなこんなでぼっちです。半年たったけど社内に友達とかいません。年上の先輩社員さんからおせんべいとかもらえるのがありがたいんですがあんまり食べられないので最近は断らせていただいております。好意はありがたい。
そして今の私は朝からミスを連発し先輩に気を遣わせ10分程休憩に入らせていただいておりますー!!!これはサボりとかではなく!!作業に集中していたら休憩時間に入っていることに気づかず!それで10分他の方が作業している間に休憩させていただいております!!
うわぁぁぁぁあ今日は朝から寝坊するしパンは焼けてないし洗濯のスイッチ入ってなかったしパンプスのヒール折れたし資料作成のサイズ間違えるし拡張子変更うまくいかないしテキストミスったしもう、もう、もう!!
「街灯になりたい……」
「何言ってんだお前……」
「オワーーーーッ先輩すみません!!!休憩終わりですね!今行きます!!」
「様子見に来たんだよなんか思い詰めてんなと思ったから」
「…………はい!」
「何の返事なんだそれ。思い詰めてんなやっぱり」
「いえ、あの、えと、大丈夫です!完全復活!」
「大丈夫大丈夫、ちょっと麦茶淹れるだけだよ、お前はあと5分休憩だし」
「でもあのほら、もう元気ですし」
「今日外気温35度越えだってよ。調子悪くなるよ、誰でも」
「私若いですし!」
「休める時に休めよ、大事だぜ」
「……私、要領悪くて、鈍臭いし。他の方の何倍もやらなきゃ追いつけないですから」
「一生懸命と真面目は美徳だ。でもな、『仕事ができる』ってかっこよさには勝てねぇんだよ」
そんなのは、わかっている。
失敗するたびに思い知る。笑って、誤魔化して。
いつも本気でやっているのに、うまくいかない悔しさを誤魔化して。鈍臭いからとか。要領が悪いからとか。頭が悪いとか。
自分を下げて。非難して。仕方ないやって諦めて。
どうしようもないから人と仲良くして許してもらいたいのに、それもうまくいかなくて。もうどうしろっていうんだ。
「だから仕事できるようになるまで自分の事悪く言うな。できる。一回一回諦めるな。次いけ。根気強くやんねぇとだが、絶対できるようになってくから。な」
「で、できるようになるって言ったってそんなのわかんないじゃないですか、今全然出来ないのに」
「わかるよ、お前一生懸命だしプライド高いし負けるの嫌いだし同期全員ライバル視してるし」
「ななな何を根拠にそんな法螺話を繰り広げてるんですー!?」
「周りめっちゃ見てて成績表めちゃ睨んでて一回やったミス2度とやらねぇの凄いんだぜ、私は全然逆だったからな、めちゃくちゃ怒られながら成長した」
「つまり怠惰で周りがどうでも良くて向上心もなく自分のミスを認められず注意されても繰り返していた時代があったんですか?」
「嫌なところだけ抜くな」
「で、怒られながら成長したって事は私これから怒られますか!?いやです!!私は褒められて伸びます!!今日褒められる要素一歳ありませんでした!!つまり説教確定!嫌です!!」
「怒られた分倍褒められたわ!舐めるな!!」
「先輩が褒められて育ってもそれ今の私に関係ないですし!」
「ある。確かにこれからお前を褒めはしない。説教もしないが」
「…………何しに来たんですか?」
「慰めに来てやったんだよ。確かに他の同期と比べてお前はゆっくりな感じだ。でも確実に成長してる。お前の同期がバケモンなだけだ。食らいつこうとしてるお前は凄い」
「……ありがとう、ございま、す…」
「だから焦るな。休む時は何も考えず休め。わかったか」
「…………」
「わかったか?」
「えぇ、はい多分」
「今のままでいいなんて言わないからな。お前は仕事ができるようになる。絶対にだ。」
「本当ですかねぇ…?」
「コツコツやってる奴は特に強いからな」
じゃ、5分後戻ってこいよ。
なんでもない風に去ってしまった。背筋が伸びていて、かっこいい。あの人が街灯だったら。んー、コンビニエンスストアだな。安心感ある。なくなったら困る。行き着いたら安心できるしなんか大丈夫だって思える。仕事バリバリできる。
あんな風になりたい。
あんな風に、なれるかな。
ちょっと大きすぎる夢かもしれない。
出来っこないって言われるかもしれない。
だけど偉い人も言っている。千里の道も一歩から。
チリも積もれば山となる。失敗は成功の母。
だからやっぱり、食らいついていくしかないのだ。
先輩ほどは輝けずとも、私は私らしく。
みっともなくとも、足掻いていくのだ。
1年に一度しか会えない恋人。
うんうんロマンチックだな。身分や仕事、人間関係諸々で好き合っているのに離れ離れ。恋とは障害が多いほど壁が高く厚いほど燃えるものだったか。
七夕とはとは。日本の神事と中国伝来の伝説と色々ごたまぜになりつつ現代まで残ってる恋愛行事。
そしてそれにかこつけて日本中の遠距離不倫カップルが逢瀬を企む浮気調査探偵大忙しのシーズンだ!!!!!
「このクソ暑い中走るにゃしょぼいボーナスじゃねぇかな!!!」
『ンマーそんな贅沢言って!バレてねぇって高括ってる所激写するのが3度の飯より好き(はーと)って言ってたアンタはどこに行っちゃったの!?ほらもうすぐ出てくるわよカメラ準備!』
「カーーーーッ何が楽しくてこんな純愛カップルの海かき分けてバカの写真なんざ撮ってんだよ僕ァ!ハーーーーッ両方相手は自分が本命だと思ってら!ばーーか!!自分たちも純愛です♡みたいな顔していちゃついてんじゃねーよ!」
『これ終わったらかき氷食いにいこうね、疲れてんだね』
「ちくしょお……こんな…純正カップルみたいな顔しやがってよ……こいつら不倫なんだぜ……クソがよ」
『がっつり慰謝料取れるようにね、証拠はばっちり集めようね』
「彦星と織姫ががっかりするぜこんなの……」
『あの2人はお互い好きすぎて仕事に身が入らなくなったんだっけ?』
「そこまで行ったらもうちょっと距離置いた方がいいんじゃねぇのって割と真理すよね……辛いは辛いけど切替できんだろ、みたいな」
『結婚するまでは2人ともマジで真面目だったんだろうね…その分箍が外れちゃったんだろうかね……』
「そんな人に出会えるってのは、幸せな事ですねぇ…」
「本当にねぇ…」
『写真撮れました、撤収しまース』
「熱中症に気をつけるのよ〜」
インカム越しの声が遠くなる。先輩の方にアイスの差し入れでもしてみるか。七夕様にかこつけずとも、できる努力を少しずつ。
『職場の先輩に、ちょっとでも近づけますように』
いろんな意味で。
手のひらに収まる大きさ。大体3本足から五本足。目は三つから四つのものが多く、時折一つ目のものもいる。二つ目のものはいない。そんな文章で始まるモノだから、放課後はいつも居残りだ。
でたらめ書くんじゃありません、そんなモノはこの世にいません、架空の友達じゃなくて現実にいる友達の事を書きなさい。
「現実にいるのに、誰もわかってくれない」
『かなしい?』
『くやしい?』
『はらへったか?』
『たすけてか?』
適当なクラスメイトをピックアップしてでっちあげる。
後日先生がそいつに「〇〇君が作文に書いてあったの読んだよ、仲良くしてあげてね」と言いに行き「ふざけんな気持ち悪い、2度と近寄るな〇〇〇〇め」と俺に苦情を言いに来るまでがセットだ。喧嘩しました、仲直りはしたので大丈夫です、で先生の仕事は終わりなのでそれ以上関わってはこない。
俺から友達を取り上げる事まではしない。
「大体みんな俺のこと馬鹿にしてんの知ってんだよ、友達なんざ冗談じゃない」
『たすけてじゃないのか』
『かなしいじゃないのか』
『くるしいじゃないのか』
『はらへった』
「お前ら本当自由だよな」
ちょっと羨ましいぜ。筆箱やらランドセルの中でうごうご遊ぶそれら。物心ついた時から隣にいたものたち。勝手に友達と呼んでいる。心通わせあっているとは別に思わないが、同い年の人間同士で遊ぶより彼らを観察している方が楽しかった。
自分にしか見えていないとなれば優越感も湧く。こいつら本当に自由なのだ。朝だろうが夜だろうがだらだら過ごしている。水辺ではばちゃばちゃやってるのを見かけるし授業中は先生の教科書でトランポリンをして遊んでいる。他人からすれば何もないところを注視して時折笑う異常者だ。そんなやつと関わりたいやつなどいない。俺だってそんなのはごめんだ。
ひとりは寂しい。だけど陰で嗤ってるような奴らに媚び売るくらいならひとりでいい。幸いこいつらみてるの面白いし、退屈はそう感じない。
『はらへった』
『めしよこせ』
『くるしいか』
『たすけてほしいか』
『めしくいたい』
「ほいほい」
てのひらサイズのこいつら用に作ったちっさいちっさいおにぎりを渡してやる。放課後居残りしてるのは俺だけだから他人に見られる心配もない。ちいさいそいつらはがばりと口を開けて米を咀嚼する。いーよなこいつら。仕事も学校もないもんな。
『ありがとー』
『はらいっぱい』
『さみしいか』
『くるしいか』
『たすけてほしいか』
「おまえら見てんの楽しいからいいよ」
多分良くないものだということはわかっている。
遠くないうちに悪い事が起きる。
それでもいいと考える程度に、俺はこいつらのことが好きだった。なんてことのない、感傷だ。
満天の、に続く言葉といえば私はアレしか浮かばない。
その言葉を聞くとどうにも懐かしく胸を締め付ける。郷愁。私の故郷にきっと、そう言う場所があったのだ。この痛みは私の過去を肯定する数少ないものの一つ。私がかつて存在した証。
ここにないものを覚えていること。ここでないどこかで生きていた記憶。私のしるべ。私が私であるりゆう。じがをたもつ、こころ。
「……この世の何処にもそんな場所はない」
「あるとも。どうして君はそう、夢も何もないことを言う?」
「夢ってのはどんな味だ?食いでがあるのか?」
「質問に質問で返すな」
「悪かった。で?どうなんだよ」
「…………君は夢も希望もないからな」
それに本当に僕の回答が聞きたいわけではないだろう。
単純に、その質問に対して私がどう返しても酷いことを言いたいがために投げかけてくるだけだ。悪意も悪気もなく。
単に私が絶望するのをみたいだけだ。しないが。
「私にとっては大事なものさ、君にしたら味も食いでもないだろうけどね」
「現実から目を背ける為の幻想が?」
「幻想かどうかは私が決める。君はきみの世界と幻想の中で生きればいい」
「……結局夢の味は?」
「知るか。君の夢の味など君しか知るまいよ」
「俺に夢なんてない」
「…………じゃありんご飴の味だ、君好きだろう。それで満足しておけ」
「夢ってのはりんご飴の味がするのか」
「人による。夢って云うのは大概そいつの好みのもので構成されているから……りんご飴より好きな物があるってんならそれでもいいんじゃないか」
「ない」
「ならりんご飴だ」
「はん。安っぽいもんだな」
「ええい人の夢を罵るだけでは飽き足らんのかきみ、自分の夢は自分で誇れ、なにゆえ自分でそう貶す?」
「安いだろうがりんご飴」
「……だからなんだ」
「俺の夢の味は安いなと」
「自分の夢に類するものを安いとか言うんじゃない」
「なんだよ俺が俺の夢を何と言おうと勝手だろうが」
「そこに至るまでの過程で私の話が無きゃあ勝手にしろと言いたいがね、私と話してそうなったんなら私にも責任があるだろうが!」
「ないだろ」
「君曰くそれは『現実から目を背ける為の幻想』にすぎないかもしれないがね、よすがにしているものにとっては何者にも変え難いモノなんだよ」
「……それが?」
「無自覚でもそれをぞんざいな扱いをしてはいけない。君の夢は君だけのもの、君の夢は君自身。たとえ自分自身だとしても踏み躙ったりしてはいけない、ここまでわかるか」
「わからん」
「君なぁ!!!」
思わず声を荒げればそこにあったのはがらんどう。
そんな顔を、するなよ。泣きたくなってしまうだろう。
「俺なんて一番どうでもいいだろ、俺が何を望もうが何を願おうが無駄だろう、そんな雑音は、邪魔になる」
「ならない」
「邪魔だ」
「そんな事はない」
「俺の意思も、こころも、なければ」
「ふたつとも大事だ。君のもので大事じゃないものなんてない」
震え始めた背中を摩る。安心できるように。ここにいるよと伝わるように。彼は時折こうなる。自分に意思も心もなければと嘆く。血を吐くように呻く。彼も自分と同じだ。何処かしらが欠けている。私はそれがここにくる前一切の記憶。彼に欠けている物が何か、私は知らない。
何も知らない。
だけど寄り添うことはできる。傷ついたこころに手当てをしてやって、どうかちょっとはマシになりますようにと祈る事は、できる。
「最初からなにもなければよかったのに」
「そんなことはない」
「ぬくもりもやさしさも知らなければよかった」
君はつめたさときびしさの中で生きてきたんだな。だからぬくもりもやさしさも知る事ができたんだ。
それは君にこころと意思があったからだと私は思う。
「私はいつか君に星空を見せたいと思っているよ」
君が私に絶望してほしいのは、多分昔の自分を思い出すからだろう。追いかけきれなくなった夢や、本当は諦めたくなかった夢や、本気で追い続けたけれども届かないと悟った夢が、あったのだろう。私に諦めさせる事で自分を慰めようとしている。だからと言って他人の夢に対してヤイヤイ言うではない。赤ん坊かお前は。
私にできる事は、成功した姿を見せる事。
夢を追いかけ続けて笑うこと。
無駄ではないと示すこと。
「願い続ける事は、夢を見る事は決して無駄じゃない、と君に証明してみせる」
そうしていつか「ほらみろ、これが満天の星空ってやつさ、君の記憶のどれより美しいだろう」、って笑うのだ。