花とコトリ

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3/30/2026, 3:41:32 PM

「何気ないふり」

満開を少し過ぎた桜の木の下で、
風が吹くたびに世界が白く揺れる。

隣を歩くクロの鼻先に、
小さな花びらがひとつ、
まるであつらえたボタンのようにくっついた。

本人は少しも気づかない様子で、
春の匂いを追いかけて、
いっそう忙しそうに地面をクンクンと嗅いでいる。

「付いてるよ」
そう教えようとして、やめた。

あまりに自然で、あまりに無垢だから。
私は知らないふりをして、
ただ、その愛おしい横顔を眺めながら歩き続ける。

何気ないふりをして過ごす、
こんな午後の数分間が、
たぶん、いちばん贅沢なのだと思う。

3/29/2026, 12:32:33 AM

「見つめられると」

テーブルの上のりんごが、静かに光を反射している。
春の光を吸い込んだその赤い肌は、触れれば柔らかな温度が指先に伝わりそうだ。

ふと視線を感じて顔を上げると、足元にクロがいた。
彼は鼻先を微かに揺らし、テーブルから漂う甘い香りを一心に追いかけている。
その黒い瞳が、まっすぐに私を見つめていた。

「まだだよ」
そう口にすると、彼はわかっているのかいないのか、首を少しだけ傾ける。

見つめられると、世界の時間がふいに止まる。
ただの果物と、小さな命。
その間にある、言葉にならない名前のない時間。
私は、剥きかけのナイフを一度置いて、
クロの柔らかい頭をそっとなでた。

3/27/2026, 1:17:23 PM

「My Heart」

三月の光は、透きとおった水槽の底に沈んでいるみたいに静かだ。
窓をあけると、風にのってやってきた満開の桜の匂いが、胸の奥のいちばん柔らかい場所に触れる。

「ねえ、クロ」

足元で小さく欠伸をした君を呼んでみる。
老いて少し白くなったその背中に触れるたび、私の心は、昨日よりもずっと素直な形に整えられていく。

特別なことなんて、本当は何ひとついらないのかもしれない。
ただこうして、淡い朝の光のなかで、
大切な命の鼓動を手のひらに感じていられること。

私の世界は、そんなささやかな断片だけで、
もう十分すぎるほど、満ち足りてしまっているのだから。

3/26/2026, 6:17:10 AM

「ところにより雨」

3月25日、水曜日
「ところにより雨」という予報のせいか、今朝の空気はどこか頼りない。

窓の外を眺めながら、熱いコーヒーを一口すする。立ち上る湯気の向こう側で、世界の輪郭が少しだけぼやけている。昨日までの悩みごとも、この湿り気の中に溶けてしまえばいいのに。

足元では、黒い塊が小さく鼻を鳴らした。愛犬のクロだ。
「散歩、どうしようか」
声をかけると、クロは眠たげな目で私を見上げ、また丸くなった。

雨が降る場所と、降らない場所。
私たちの心も、きっとそんなふうにできている。
静かな朝の、光の加減。
今はただ、この曖昧な時間のそばにいたい。

3/14/2026, 3:37:34 PM

「安らかな瞳」

三月。庭の木蓮が、重たい冬を脱ぎ捨てるように白い花を上向かせている。
あんなに純粋な白を、私は他に知らない。

足元では、クロが春の陽だまりに溶けている。
薄く開けられたその瞳。
そこには、追いかけっこをした記憶も、昨日叱られたしょんぼりした気持ちも、もう何も残っていない。
ただ「今、ここにいる」という、透き通った肯定だけがある。

「クロ」
名前を呼ぶと、尻尾が一度だけ、ゆっくりと庭の土を叩いた。
揺れる花びら。静かな呼吸。

何も解決しなくていい。
ただこの安らかな瞳に見守られて、私も私自身を、少しだけ許してみる。

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