「平穏な日常」
3月12日、光の粒。
朝の光が、カーテンの隙間から細い階段を作っている。
お気に入りのカップに注いだコーヒーからは、まっすぐな湯気が立ちのぼる。苦みの奥にある微かな甘みを探る、この静かな数分間が私の贅沢だ。
足元では、黒い塊がふにゃふにゃと寝返りを打った。愛犬のクロ。彼の短い寝息は、この部屋の湿度をちょうどよく保ってくれている。
特別なことは何も起きない。けれど、この「何事もなさ」が、薄い硝子細工のように尊いのだと知っている。
世界は今日も、私とクロのまわりで、穏やかに呼吸を続けている。
「月夜」
3月7日
月があまりに明るいので、パジャマのまま庭へ出た。
光を浴びた庭の桜の木は、まだ蕾だというのに、
どこか遠い星の植物のように銀色に発光している。
足元では、黒い影のようなクロが
鼻先をひそめて、夜の匂いを丹念に追いかけている。
クロの背中にも月光が降り積もり、
その毛並みは、まるで静かな夜の海みたいに波打っていた。
「ねぇ、クロ。私たちは今、宇宙の真ん中にいるみたいだね」
独り言は、冷たい空気に溶けて透明になる。
言葉にならない感情を、月だけが知っているような夜。
私たちはただ、銀色の静寂の一部になって、
しばらくそこに立っていた。
「たまには」
3月5日、光のなかで。
三月にしては、あまりに柔らかな日差し。
春が少しだけフライングして届いたような、そんな午後。
たまには、あてもなく歩いてみよう。
黒い塊のようなクロが、私の数歩先を弾むように駆けていく。
時折立ち止まっては、「来てる?」とでも言うように振り返るその瞳。
私たちは海を目指す。
岬の端っこ、真っ白な灯台が見えてきた。
空の青に吸い込まれそうな白。
何年もそこに立っている、静かな記号。
風はまだ少し冷たいけれど、
クロの背中を撫でると、陽だまりの匂いがした。
日常の隙間に落ちている、こういう静かな時間が
きっと、明日を少しだけ軽くしてくれる。
「大好きな君に」
三月の柔らかな光のなかで、君はいつだって僕の足元にいる。
07:30
「ごはんだよ」
袋を揺らす音に、君は世界で一番幸せなニュースを聞いたような顔をする。
器に落ちるドッグフードの、乾いた、けれど確かな音。
待ちきれなくて、君の前足がフローリングを「タカタカ」と小さく鳴らす。
15:00
黒い毛並みに指を沈めると、春の陽だまりの匂いがした。
「クロ」
名前を呼ぶと、君は首をかしげて僕をのぞき込み、濡れた鼻先を僕の手のひらにぐいっと押しつける。
君の瞳に映る僕は、君が思っているよりもずっと不完全で。
それでも、お腹を見せて無防備に眠る君の姿を見ていると、僕の心も少しだけ透き通るような気がするんだ。
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「大好きな君に」(クロの視点から)
06:00
まぶたをひらくと、大好きな人の匂いがした。
まだ夢のなかにいるあの人の、規則正しい呼吸の音。
僕はそっと、布団から出ているその手首に、冷たい鼻先を押しあててみる。
07:30
「ごはんだよ」
あの人が袋を揺らす。魔法の合図だ。
カサカサ、カラカラ。
器に落ちるドッグフードの音を聞きながら、僕は嬉しくて、足にうまく力が入らなくなる。
しっぽが勝手に、床をパタパタと叩いてしまうんだ。
15:00
あの人はときどき、少しだけ寂しそうな顔をして僕を見る。
そんなときは、わざと力いっぱい体を寄せて、あごを膝に乗せてみる。
「クロ」
名前を呼ぶ声が、僕の黒い毛並みに溶けていく。
あの人が笑ってくれるなら、僕は何度でも、この春の陽だまりのなかで踊ってみせるよ。
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「ひなまつり」
三月三日。
春の光が、部屋の隅にある埃を静かに照らしている。
今日はひなまつり。
大きなボウルに、彩り豊かなちらし寿司を作る。
酢飯の匂いがツンと鼻を抜けて、なんだか遠い記憶の扉を叩く。
特別な日の、あの落ち着かない、でも少しだけ誇らしい気持ち。
足元では、愛犬のクロが「自分も混ぜて」という顔をして見上げている。
黒い鼻をひくひくさせて、春の匂いを確認しているみたい。
幸せは、きっとこういう、なんてことない瞬間の積み重ねだ。
ひな人形は出さなかったけれど、
クロと、この鮮やかなお寿司があれば、
私の心には十分、静かな春の風が吹いている。