「ぬくもりの記憶 」
雨上がりの午後、窓を叩く音が遠い記憶の扉を開けた。あの日の匂い。クロの毛の、乾いた草のような、少し土っぽいぬくもり。
ソファの角で丸くなるクロの、時折小さく震える呼吸を聞きながら、私は冷めたコーヒーをすすった。いつだって、このカップの白さと液体の黒さは、私を静かな思考へと連れ去る。
クロが老いて、眠る時間が長くなった。指先に感じるゴツゴツとした背骨の感触が、そのまま時間というものの手触りのように思える。
コーヒーの苦味の奥に、いつも彼の存在があった。
特別なことは何もない。ただ、そこにいるということが、私の世界に確かな熱を置いていく。
もし、このぬくもりがいつか遠いものになったとしても、私の手のひらは、きっとこの穏やかな重さを永遠に覚えているだろう。
凍える指先と、クロの温もり
この冬一番の冷え込みが、窓ガラスを細かく叩く夜。
暖房をつけた部屋の中でも、
キーボードを打つ指先だけは、
もう随分前から氷みたいに冷たくなっている。
まるで、私だけ別の季節にいるみたいだ。
「大丈夫かい?」
そう言ってくれる声があればいいのに、
聞こえるのは時折聞こえる、愛犬クロの寝息だけ。
毛布にくるまって丸くなった黒い塊は、
たったそれだけで、
部屋の空気をふわりと暖かくしてくれる。
さっき淹れたはずのコーヒーも、
カップの中でもうすっかり冷たくなって、
湯気一つ立てていない。
それでも、一口飲む。
苦い、けれど、体には沁みる。
凍えた指先を、
クロのやわらかい頭にそっと乗せてみる。
温かい。
この温かさがあれば、もう少し、
この静かで冷たい夜と付き合っていける気がする。
「消えない灯り」
夜のしじま。
電気を消しても、窓から微かに届く月の光が、
床にいるクロの輪郭を優しく縁取る。
もうずいぶん長く一緒にいる。
彼が私を見つめる、あの潤んだ黒い瞳。
その奥にある純粋な信頼は、
どんな嵐の中でも揺るがない、
私の心の底で灯り続ける小さな炎だ。
ふと、自分の手のひらを広げてみる。
何かを掴んでいるわけではないけれど、
そこにはいつも、
クロの温もりがあるような気がする。
いつか、すべてが変わってしまう日が来るだろう。
それでも、この「愛されていた」という事実は、
消しゴムでも消せないインクのように、
私の人生という紙に深く染みついている。
クロ、お前は本当に、私の消えない灯りだ。
凍てつく星空
夜の庭に出た。
シンとして、息が白い。
肌に触れる空気は、痛いくらい冷たい。
見上げた空。
凍てついた星々が、
まるで砕けたガラスのように、
鋭く、そして果てしなく遠く光っている。
何億年も前の光が、
いま、わたしの目に届いている。
その途方もない時間の長さに、
わたしという存在の小ささを思う。
ふと足元を見ると、
クロが丸くなってわたしの足に寄り添っている。
もふもふした、小さな温かいかたまり。
宇宙の冷たさとは対極にある、
この確かなぬくもり。
世界はこんなにも大きくて、
凍てついているのに、
わたしはたったひとつの生命のそばで、
こんなにも温かい。
クロの吐息の温度。
このぬくもりこそが、宇宙への返事。
🐾 君と紡ぐ物語
銀色の朝。
まだ少し肌寒いリビングで、君は丸まっている。
クロ。
黒い毛並みが、夜の残りのように鎮座している。
私にとって、君といる時間は、
いつも物語を編んでいるみたいだ。
大層な出来事なんて起こらない。
ただ、君が隣で「くうん」と小さく鼻を鳴らす。
その音を聞き逃さないように、
そっと耳を澄ませる。
散歩道で出会う花や、
濡れたアスファルトの匂い。
君が夢の中で小さく走っている足音。
全部、ささやかな詩になる。
君は知らないだろうけれど、
私は君と交わす視線の中に、
たくさんの言葉を見ているんだ。
それは、私だけが読める行間。
ありがとう。
今日も、私の物語の隣にいてくれて。