「夢の断片」
朝、目が覚める。
いつもなにかを忘れている。
夢のほとんどは、消える。
洗い立てのシーツみたいに。
光を浴びると、乾いて消えてしまう。
ごくたまに、残るものがある。
指先の砂粒ほどのざらつき。
それが「断片」だ。
昨夜の夢も、そうだった。
小さなざらつきを残した。
真っ白な部屋にいた。
わたしとクロ。
窓もない。ドアもない。
静かな、ただ白い空間。
クロは首をかしげた。
わたしの顔を、じっと見つめていた。
いつもの瞳じゃない。
澄んだ茶色じゃなかった。
夜の海。深い藍色だった。
わたしは、なにも言えなかった。
クロのその藍色の瞳のなか。
遠くで点滅する、小さな星。
それを見つけようと、見返していた。
現実に戻る。
クロは足元。丸くなって寝ている。
いつものように。
太陽の光。
黒い毛並みが、鈍く光る。
ああ。
この子こそ、わたしのいる白い部屋の。
唯一の窓。
そして、ドアなんだ。
夢の藍色はもうない。
あるのは、安心しきった重み。
かすかな獣のにおい。
それで、充分だ。
「吹き抜ける風」
風が、ただ通り過ぎていく。
私をどこへも連れて行かない。
何かを壊そうともしない。
ここにいることを、教えてくれる。
テーブルの紙が浮き、また落ちる。
ああ、世界は動いている。
特別なことじゃない。
日々の小さな動きだ。
愛犬のクロは縁側で寝ている。
長い黒い毛が、微かに揺れていた。
クロの夢の中にも、風は吹くだろう。
ピクッと動いた耳が、それを教える。
急ぐ必要は、どこにもない。
人生も、この風に似ている。
ただ、静かに通り過ぎるだけ。
その道の途中で、
誰かの温かい手に触れる。
クロの柔らかい毛に触れる。
それで十分だと思う。
風が連れてきた匂いは、夏の終わり。
そして、新しい始まりの予感がした。
「記憶のランタン」
光にならないものがある。
たとえば、クロの重さだ。
わたしの膝で丸くなったクロの、
ずっしりと重い。生きている重さ。
それは光ではない。
音もない。色もない。
ただ熱だけだ。
クロの体温は消えた。
わたしは手のひらに記憶する。
その場所が痛む。ときどき、ちくりと。
それは小さなランタンの火。
闇を照らす光ではない。
火傷しそうな熱い熱。それだけを持つ。
真っ暗な部屋で抱きしめる。
そっと、その熱を。
誰にも見えない小さなランタン。
揺れるたびに聞こえる。
あの日のやさしい息づかい。
わたしたちは知っている。
その熱さえあれば、生きていける。
「冬へ」(冬の散歩とクロ)
朝。空は、鉛色。
風が、乾いて冷たい。
こういう日は、部屋の光が白い。
光は、温かさと冷たさを分ける。
クロと散歩に出る。
アスファルトが凍てついている。
クロの息が、白い煙になる。
それが、冬の合図。
手袋の指先が痛い。
でも、クロは歩き続ける。
力強く、地面を蹴る。
私もその歩調に合わせる。
景色は、何もかも色を失っている。
ただ、輪郭だけが残る。
世界が、シンプルになっていく。
クロは、時々私を見る。
「大丈夫だよ」と、言っている気がする。
その黒い瞳に、私は救われる。
冬は、言葉が要らない季節だ。
ただ、隣にクロがいる。
それだけで、全てが足りている。
私はこの静かな時間を、
ポケットに入れて、家に帰る。
「時を止めて」
クロとソファで毛布にくるまっている。
部屋は夕方のにおいがする。
特別なことは何も起こらない。
ただ、お互いの息の音が、静かに、そこにあるだけ。
クロの毛並みが、昔より少しごわごわしてきたのを知っている。
指先に、命の重みを感じる。
私たちは、この瞬間をいつか失うだろう。
どんなに願っても、時間は誰にも味方してくれないから。
クロの時間が、私の時間と違う速度で進んでいることも、わかっている。
だから、今、目をつぶる。
瞼の裏に、この温かさと、クロの軽い寝息を焼き付ける。
瓶詰めにできるなら、そうしたい。
光も風も届かない、どこか奥深い場所にしまっておきたい。
でも、できないから、代わりに深く吸い込む。
この一瞬の匂いが、私の全部だ。
そして、またすぐ、明日が来てしまう。