文章を書くときは基本的に誰かに届けることを念頭において書く。誰かとは他人に限らず、未来の自分も含まれる。言葉を口から発するだけでは、言葉は時間の流転の中に埋もれ、消え去っていく。消え去っていく言葉に形象を与え、言葉を持続的に存在するものにする行為が、書くという行為だ。
——あなたに届けたい
「I LOVE」 とくれば「YOU」と入れたくなるが、「YOU」を入れなければならないという必要性はない。ただ「愛する」と言って真っ先に思い浮かぶのはやはり恋愛に関連するものだろう。ただ「愛してる」と直接に言うのは恋愛小説か恋愛ソングの中ぐらいなもので、実際の生活の場で「愛してる」と直接に言うのは日本的趣きに反することのように思う。日本の価値観においては、明らかな部分より、隠微な部分を鍾愛する傾向が強い。
——I LOVE
いやな時期になってきた。この時期になるとやりきれないおもいにおそわれる。むかしはこうではなかった。いつからこの時期を厭悪するようになったかは、わたしに明確にわかっている。それは大学受験が蹉跌してからである。
むかしからわたしはとりえのないニンゲンであった。あらゆることに劣等感をかんじ、いつもフマンをくすぶらせていた。
しかし、そのときはまだキボウがとざされているわけではなかった。わたしのジンセイにもまだ曙光がさしこむ余地があった。その曙光とは大学受験である。
大学受験にせいこうし、だれもがみとめる一流の大学に入学すれば、わたしのジンセイの蒔き直しがかなうとおもった。とりえのないわたしにもヒトにほこれる強みをもつことができる、そうかんがえることはわたしのはげましになった。
わたしは一流の大学を志望校にさだめ、べんきょうにはげんだ。元来べんきょうがとくいなわけではなかったが、ジンセイのゆいいつの曙光をのがさないようにするべく、孜孜としてべんきょうした。
しかし、非望をいだいたわたしを、ゲンジツは大学受験の蹉跌というかたちで、てきめんにうちのめした。第一志望にさだめた大学は不合格で、あまつさえ第二志望の大学も不合格であった。
わたしのキボウはついえた。もはやわたしのジンセイに曙光がさしこむ余地などなくなった。これからは刑余者のようにでぐちなしのどんづまりのジンセイをあゆまねばならぬだろう。
この蹉跌のきおくがわたしをさいなみ、わたしはこの時期を厭悪するにいたったのである。まだキボウのついえていない高校生をみるとねたましくおもう。そして、受験にせいこうし、あかるいミライへととびたつ高校生をみるとひきさかれんばかりになり、じぶんのいかに無力かをしる。
もしこれをよんでいる方に高校生の方がいられたら(わたしの暗鬱な文章などよんでいるものがいるのかうたがわしいが)、わたしの覆轍をふまぬようちゅういしておきたい。おわってしまったニンゲンから。
せんじつ、成人式があった。わたしはいま20さいで、ことしの成人式にしゅっせきするシカクのあるニンゲンなのだが、けっせきした。
けっせきしたりゆうを、たんてきにのべるなら、それは「はじ」があったからだ。小学生のころは、ひとなみにやっていた。しかし中学生からは、みるみる零落していった。小学校のしりあいで、中学校でわかれたものは、いまのわたしをみてどうおもうのかというケネンがあった。
またわたしは、同級生のいくたりかが、はなばなしいせいこうのみちをあゆんでいるのをしっていた。それがじぶんとひきくらべられて、かれらと会うには、あまりにも耐えねばならぬはじがおおいことがありありとわかった。
絢爛なふりそで、凛としたくろスーツ、華やかなはなたば、おもいでばなしに起こるわらいごえなどから疎外されているのをかんじた。
20さいはまだわかいからジンセイをやりなおすこともカノウだとラッカンテキにのべるものがいるが、わたしはそうはおもわない。ニホンのシャカイが、学校をそつぎょうすれば、しごとにつき、定年まではたらいてせいかつするしくみになっている以上、就職におおきなえいきょうをおよぼす学歴がすでに大方きまっている時点で、ジンセイの方向づけも大方きまっている。
つまり、うまれてからの20ねんほどで、そのものがあゆむジンセイの方向づけはきまっており、あとのねんげつはその方向づけにそってすごしていくことになる。
わたしはいま、じぶんがあゆんだ20ねんをふりかってみて、後悔ばかりがめだつことにきづく。そして、後悔は、誕生のときにまでさかのぼる。わたしの根源的な後悔。
——ああ、この世にうまれてくるんじゃなかった。
——20歳
みちたりたせいかつをおくっているもの、向上のみちをあゆんでいるものは、せいかつをはかいしうるような危機的事件をそうぞうすると、はげしいキョウフにとらわれるだろう。しかし、すでにじょうしょうの階梯からはずれ、どんぞこにいるわたしは、せいかつをはかいしうるような危機的事件をそうぞうしても、こころをみだされることがない。こうかんがえることがわたしのゆいいつのなぐさめだ。