1/3/2024, 3:29:00 PM
忘却にみをゆだね、ねむっているわたしは、もえるような曙光がさしこんでくるのに、めがさめる。くるしみのただなかにいるものにとって、めざめとは、いくぶんつらいものである。かりそめの忘却からめざめへとうつってゆくなかで、苦悩をせおいこんでいるじぶんをさいはっけんし、すべてのどんづまりをおもいだす。そのようなくるしいしゅんかんにさしこむ曙光は、もえるようにぎらぎらとかがやき、まるでわたしをせめさいなむほのおのようだ。ねむりの忘却のふちにしずめておきたいことどもを、曙光はヨウシャなくあばきたて、わたしにいやおうなくちょくめんさせる。つかのまのねむりでわすれていた苦悩をはっきりとおもいだし、わたしは憂愁にとざされる。しかも、そのときにはすでにねむけはわたしからさり、ふたたびねむることはできない。わたしは、はっきりめざめたイシキのまま、苦悩にたちむかわなければならない。
——日の出
1/2/2024, 11:12:34 AM
ミライもえいえんだが、カコもまたえいえんである。じんせいはこのふたつのえいえんにはさまれている。カコのえいえんのあいだ「む」であったわたしは、いまようやくそんざいをえたのだが、しかしこのじんせいはしっぱいであった。
12/31/2023, 3:58:29 PM
ここすうねん、わたしによい年なんてなかった。ことしはよい年になってほしい、ときたいするのもやめた。2024年もまたわるい年になるだろう。じょうきょうはどんどんわるくなっている。みうごきのとれぬゆきづまりにおちいっているのだが、どんどん月日はながれてゆき、わたしのゆいいつの取り柄のわかさをうばっていく。わかいニンゲンにしか享受できないたのしみをケイケンすることなく、セイシュンはすぎさろうとしている。ああ、だれかすくいあげてください。
——良いお年を