鴫沢(しぎさわ)

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 せんじつ、成人式があった。わたしはいま20さいで、ことしの成人式にしゅっせきするシカクのあるニンゲンなのだが、けっせきした。
 けっせきしたりゆうを、たんてきにのべるなら、それは「はじ」があったからだ。小学生のころは、ひとなみにやっていた。しかし中学生からは、みるみる零落していった。小学校のしりあいで、中学校でわかれたものは、いまのわたしをみてどうおもうのかというケネンがあった。
 またわたしは、同級生のいくたりかが、はなばなしいせいこうのみちをあゆんでいるのをしっていた。それがじぶんとひきくらべられて、かれらと会うには、あまりにも耐えねばならぬはじがおおいことがありありとわかった。
 絢爛なふりそで、凛としたくろスーツ、華やかなはなたば、おもいでばなしに起こるわらいごえなどから疎外されているのをかんじた。
 20さいはまだわかいからジンセイをやりなおすこともカノウだとラッカンテキにのべるものがいるが、わたしはそうはおもわない。ニホンのシャカイが、学校をそつぎょうすれば、しごとにつき、定年まではたらいてせいかつするしくみになっている以上、就職におおきなえいきょうをおよぼす学歴がすでに大方きまっている時点で、ジンセイの方向づけも大方きまっている。
 つまり、うまれてからの20ねんほどで、そのものがあゆむジンセイの方向づけはきまっており、あとのねんげつはその方向づけにそってすごしていくことになる。
 わたしはいま、じぶんがあゆんだ20ねんをふりかってみて、後悔ばかりがめだつことにきづく。そして、後悔は、誕生のときにまでさかのぼる。わたしの根源的な後悔。
 ——ああ、この世にうまれてくるんじゃなかった。


——20歳

1/10/2024, 4:54:44 PM