全長250m、収容人数5万人の巨大な船『ノア』は、
その製作者から「未来への船」と称された。
『ノア』は、人間によって枯れ果てた地球を離れ、人類が平和に暮らせるとされる惑星へ移動するための手段であった。
その船の搭乗員には、有名・著名人、政府の主要人物、科学者、人間国宝といった、人類の存続に欠かせない存在が選ばれた。
「未来への船」と華々しく銘打ってはいるが、これは人類の選別だ。残された人類は皆見捨てられたのだ。と選出されなかった人間は叫んだ。
選ばれた政治家はその声に耳を塞いだ。
さて、いよいよノアが飛び立つ時がきた。
「さようなら」
「元気で」
と残された人類は手を振る。
その瞳の奥には、『取り残された』という絶望が揺らめいている。母親の手に抱かれた赤ん坊は、愉快そうにノアを見て笑った。
ノアが発ち、その姿が雲に紛れたと思ったその時、
巨大な爆発音が響いた。
青い空は一瞬で赤く染まり、数秒遅れでまばゆい光が辺りを包み込む。
数秒後、空が晴れた。
まるで何も無かったかのように、まばらな黒い雲が浮かび、太陽が照りつけている。
ただ、その中に小さく、何かが燃えながら地上へ落下している。
ノアだ。
爆発したのはノアだった。
人類はそれらを自然と理解し、「未来への船」が落ちる様を、無表情で眺め続けた。
季節が戻ったかのような鋭い風が吹く春の夜、屋上のフェンスの向こう側で、少女はひとり立っていた。その目はうつろで、足元もおぼつかない。
少女はほんの数時間前「病気の回復は絶望的だ」と告げられたばかりである。余命は病院ではなく、家で過ごすべきだと言う医者に従い、少女は明日の朝には退院することになっていた。
「ミサキ……」
少女は同室の少女の名を呼んだ。
ミサキと過ごす日々は、サツキにとってとても楽しいものだった。叶うものなら、残りの寿命も彼女と一緒に過ごしたかった。しかし、それではサツキの病気の事がバレてしまう。
「一緒に病気を治して、2人で遊園地へ遊びに行こう」
そんな約束を、してしまったから。
ミサキに知られるのは嫌だった。
サツキはグッと唇を噛み締める。足元が震える。それはきっと、寒さのせいのみではない。
「ごめんなさい」
とうとう膝から崩れ落ちて、サツキは大声で泣き叫んだ。しかしそのほとんどは、少女の肌を刺す風の音に飲み込まれてしまった。
おだやかな日差しが気持ちいい春の午後、病院の屋上のフェンスにもたれかかった少女は、ひとりごちた。
「サツキちゃん……」
かつて同室で、今は退院してしまった少女の名を呼ぶ。
「元気かなぁ……」
言葉は誰にも届かず、宙に浮かんで消えた。
私はあの子との約束を思い出していた。
「いつか、私が助けてあげるから」
これ以上下はないだろう、というドン底で倒れているあの子に、その頃純粋だった私はそう言った。
私は本気であの子を助けることができると思っていた。
あの子を笑わせることができると考えていた。
しかし、それはあまりにも遠い幻想で。
あの子に絡みついた鎖とかせを外すのは、子供の私にとってあまりにも難解すぎて。
自分が想像するより、私は無力だったのだ。
それでも、あの子はずっと信じ続けた。
子供の軽い口約束を、ずっと信じ続けていた。
そこで、やっと私はその約束の重さを知ったのだ。
「守れなくて、ごめんね」
私はそう呟いて、教科書を閉じた。
もうすぐ、この国の法律が変わる。
虐待がもっと重い罪になる。
監視の目が厳しくなる。
苦しむ子供は、きっとこれで減るだろう。
「あなたのように死んだ子を、もう作らないよ」
私はまたひとつ、遠い約束をした。
ここには昔、川があったらしい。
ここには昔、谷があったらしい。
ここには湖が、
ここには海が、
ここには山が、
大昔には、あったらしい。
「ねぇ、川って何?」
「分からない。
昔の地図の上に書かれた、
青い線のことをそう呼ぶらしい」
2人は今の新しい地図と、昔の地図を見比べているようだ。色彩豊かな昔の地図とは違い、新しい地図は灰色が大半を占めている。プレートの上の都市だ。
「土地に青い境界線が引かれていたの?」
「…そういうことではない気がする」
「へー…何なんだろうね」
こうして2人の会話は終わり、
20××年の地図は閉じられた。
桜の精霊がもし実在するのなら、きっと彼女のような姿をしているのだろう、と思う。
君は4月上旬に突如転校してきた。満開の桜が綺麗な季節だ。薄い桜色の髪と、鮮やかな桃色の瞳。ふわりと笑う君の笑顔は、春の陽気のようなあたたかさがあった。
『園田桜子』
そう彼女は名乗った。
穏やかで可愛い彼女はすぐにクラスに馴染み、初日は隣にずっと誰かが並んでいた。告白した男子も居たと聞いたが、定かでは無い。
どちらにせよ、クラスで孤立している僕には、縁のないイベントであった。
5月の上旬、彼女の様子がおかしくなった。
いつもの暖かい笑顔には陰がかかり、目にクマができている。何より、彼女の髪が真っ白に変色していたのだ。
「大丈夫?」「何かあった?」
クラスのみんなは彼女を心配して声をかけたが、彼女は力無く首を振るだけであった。
彼女の元気は日が経つにつれてなくなっていき、1日中保健室にいることも当たり前になってきた。先生は『原因不明の病』という便利な一言で、彼女を片付けた。
その日僕はたまたま、彼女に連絡や授業プリントを持っていく担当だった。
彼女は保健室の窓際の、白い無機質なベッドに横になっていた。白い肌、髪、瞳がシーツに溶け込んでおり、そのまま消えてしまいそうな儚さがあった。
「智也くん」
彼女が僕の名前を呼んだ。透明な声。
扉を開ける音で起こしてしまっただろうか。
「寝てた?ごめん」
「ううん、大丈夫」
僕は返答にホッとして、プリントもろもろをベッドの傍にある机に置く。彼女は軽く一瞥するのみである。
「お大事に」の一言と共に立ち去ろうとする僕の背中に、彼女の声が飛んだ。
「ねぇ、」
振り向いた僕と彼女の目が合う。どこまでも白くて、奥が見えない瞳。かつての桃色の瞳の名残は、その中で僅かに揺蕩っている掠れた色のみである。
「みんなに『ありがとう』って伝えて」
突然の言葉で上手く飲み込めない。どうしてこのタイミングで、僕に託すのだろう。
「それと、『また会えるから』って」
そう告げた次の瞬間、彼女の瞳から完全に桃色が消え去った。
「あ」と小さく呟いた僕の声は、突如吹いた強い春風に呑まれた。窓が開いていたのだろうか、白いカーテンがぶわりと舞い上がる。
突風に身を構えながら、僕は信じられないものを見た。
大量の桜の花びらが保健室に舞い降りたのだ。白い室内に映える、桃色の花びらだ。花吹雪にしては量が多く、作り物にしてはリアルすぎる。僕はその美しさに、何もすることができなかった。
何もかも収まった後、僕は彼女が寝ていたベッドを覗いた。しかし、そこには何も無かった。
ただあるのは、そのままシーツに溶けてしまいそうな、白い桜の花びらだけであった。