山間の盆地。山より降りる風に揺れる湖はまるで海のように広く、果てしないが、海岸から見えるのは水平線じゃなくて遠景となる薄墨で描かれたような山脈。波がぱちゃぱちゃと岸を打つ。今日は風が強く、波も多少イタズラっ気に陽光を受けて輝いている。まばゆいほどの波に乗る光のチラつきの中に黒いカモが泳いでる。必死に難破しないように前へ前へと漕いでいる。行く当てがあるのだろうか、でなければどうして風に逆らうのだろうか。羽ばたくこともなく黒いカモは対岸を目指している。遠雷の音すら届かないあの薄い稜線へと。必死に泳ぐその姿を私は目を離すことができなかった。人の歩みの何分の一かの速さでも湖を縦断しようとするこのカモの幸福を応援して、日は落ちた。後には水面に月の影。
満員電車の中で本を読む。猫が探偵をする本。ドアが開いて、人が去り、人が再充填され、また電車はゆく。ゆりかごよりもぎこちなく、前後に左右に揺れて、時折文字を追う目が行から飛び出して交通事故を起こす。不意に外れたその視線の先には同じ本を読む学生がいた。座っていて、頭がおっこちそうなほど見入ってる。ページの端をチラリと見れば、私と同じところ。向こうが集中力を切らしたせいか、ふっと顔を上げたので私は何気ないふりをしてまた本に目を戻した。満員電車。私たち二人だけの同盟。
居酒屋で大学のサークルの人たちと飲み合う。ガヤガヤとしたひとだかりの中、まだサークル仲間とは呼べない。ただ乾杯の合図とともに私を固める氷が解ける兆しを見せてくれる。夜に煙り、人を飲み込むこの仄暗い明るさが私たちを溶かしてくれる。ビールが脳を溶かしていく。笑い、怒り、そして弱まり。私の中にいる臆病者の私がようやくみんなを仲間と呼ぶ。ときに愚痴を嘔吐する。みっともないことであるが、夢の中であればみっともなくていい気がする。月冴え冴えと、ただ笑う。
あぁ、夢が醒めることなきように。
・胸の高鳴り
親戚の集まりでもうヨボヨボで耳も聞こえないおじいちゃんがどうにかぼやけた視界を凝らして私たちを見てくれる。補聴器をつけて僅かに聞こえる左耳を凝らして私たちの雑多な話と笑い声を聞いてくれる。私がゲラゲラ笑ったり、料理の皿を寄せたり、他愛もない話をしたりすると、時折たまにふらっと笑ってくれるのだ。奥さんが梅酒はほどほどにしなさい、という叱咤は聞こえない。無視してるわけではなく。ほんとはきっと私の声も聞こえてないのかもしれない。けれども、フリでも、もう目の前の奥さんの言葉さえ判然としない人に言葉が届くとき。そのとき胸が高鳴っている。きっと私も、おじいちゃんも。