胸が高鳴る。きみの香りがする。動けなくなる。きみの声が聞こえる。まばたきすら惜しくなる。きみのぬくもりがすぐそこにある。わたしの世界が色鮮やかになる。
「紛れもなく、それは恋だね。」
唯一の親友の言葉がぼんやりとした頭に響く。
「初恋おめでとー。」
かけがえのない親友の視線は未だ小さな画面に向けられている。
わたしが何も返さないことを一つも不思議に思わないらしく、その目は動かない。まるできみに恋をするわたしのように。
「いやー、あたしも早く恋したいなあ。」
その言葉に心臓が踏み潰されたように、呼吸が荒くなる。
「ねー、どんな奴?」
決して広くない世界で、けれどその世界を丁寧に愛することができるひと、と言おうとした。
いま、目の前にいるひと、と言おうとした。
けれど、なにも言えなかった。
だって、きみを前にするとどうしようもなく唇が震えてしまう。
「不条理を嫌な顔せずに受け入れることができるようになってしまったら、大人になった証拠だと思う。」
日本語へんだよ、といつもみたいに言えばよかったけれど、言えなかった。
薄いメイク、ゆるめに纏められたぱさついた黒髪、開いたままのピアスホール。
数年前のわたしが今の彼女とすれ違っても、気づかないだろうと思うほどに、変わっていた。
なにが彼女を変えてしまったの、なんて嘆く無知なわたしもいなくなった、いなくなってしまった、いや、いなくならなければいけなかった。
大人になるとはそういうことが積もっていくこと、なのだと思う。
昔の彼女と今の彼女。重ねようとしても重ならないふたりを見ていた。
「泣かないよ。あんたなんかのために泣いてやんないから。」
乱暴な言葉を吐き捨てた唇はかすかに震えていた。
思わず笑いがこぼれると、彼女はこちらをギロリと睨む。鋭い視線を向ける大きな瞳には、溢れそうなほどに涙が溜まっていた。
そんなこと見なくても見えているよ、と言いたげに夫は頬を緩めた。顔からお肉が削げ落ちてしまったせいで、その表情はとても歪なものとなっていたけれど。
「泣いてくれたっていいじゃないか。」
声は掠れていたけれど、夫は楽しそうだった。
彼女は、娘は、それが気に入らないのか、精一杯の冷たい視線を夫に向ける。
お医者さんや看護師さんの手前、わたしは母として彼女を叱らねばならなかったのかもしれないけれど、唇の隙間からは笑いしか漏れない。
一歩後ろで静観している彼らに、わたし達家族はどう映っているのだろう。
家族の死に直面して頭がおかしくなってしまったか、気が狂ってしまったか、それともとんでもなく冷徹な人間だと思われているのだろうか。もしそうならば、今すぐに唇を一の字に結んで、懸命に涙を浮かべた方がいいのかもしれない。そんなことを思っていても、顔の筋肉はなかなか締まってくれなかった。
笑みを浮かべたままの両親に娘は我慢の限界が訪れたのか、一粒、また一粒と涙を落とし始めた。
「死なないでよ。」
娘の声は先程の夫の声よりも掠れていて、きっと後ろの彼らには届いていないだろう、それくらい小さかった。
夫は、今度は眉を下げた。そればかりは聞いてあげられないな、と言うように。
わたしは顔の筋肉に働くように命じた。決して、この口角が下がってしまわないように、涙が流れてしまわないように、と。
「たまにはさ、そっちからちゅーしてよ。」
黒よりは茶色に近い大きな目が、わたしを捉えていた。
大学生にもなってちゅーとか言う奴はイカれてる、という親友の偏見しかない言葉を思い出す。
「ねえ、無視しないでよ。」
無視をしているわけではない、というように、顔を手で押しのける。手のひらに収まってしまいそうなほどのサイズ感に驚いた。それと、皮脂が全くなさそうな肌のきめ細やかさにも。
ねぇー、と繰り返し呼ぶ声が聞こえる。
まとわりついてくる大きな腕も払って、テレビの音量を大きくした。
画面の中では名前のない女が死んだ。
そもそもこの映画を見たいと言ったのは彼の方だったのに。始まって十分もしないうちに飽きて、集中しようとするわたしに平気で声をかけてくる。
先ほど追い払った小さな顔が、今度はわざとらしく唇を尖らせたままやってくる。
「恋愛は受け身派。」
それだけを言い放ったわたしの腰に、彼は腕をまとわりつかせ、耳元へ口を運ぶ。
「知ってる。」
小さな声とともに薄い唇から漏れる彼の息が耳にかかってくすぐったい。
「でもたまにはいいでしょ。」
ちらりと視線をやると、彼は嬉しそうに笑う。
画面では名前のない探偵が現れ、名前のない男が涙を流し、名前のない年寄りが怒鳴っている。
コイツが隣にいる限り、わたしは映画をまともに見れないだろうな。そんなことを考えながら、かさついた唇を重ねた。
たそがれ空がとても綺麗だと気付いたのは、彼の視線の行く先を辿ったからだった。
日誌をわざと書かずにいた。先生から頼まれていた仕事を、放課後になるまで忘れたフリをしていた。
優しい彼はきっと付き合ってくれると分かっていたから。
オレンジ色の光を一直線に見つめる彼はとても綺麗で、今にもその光に吸い込まれて消えていってしまいそうだった。
わたしが好きになってしまった彼は、時折とても儚い表情をする。ここにはいない誰かを、ここの景色と重ねて、愛おしそうに眺めている。けれど、わたしから見える彼の瞳にはこの景色しか映っていない。空はたくさんの色が混ざっていて、それでもわたし達に届くのはオレンジ色だけ。彼は、そんなこの景色と、誰を重ねているのだろうか。
「ごめんね、色々忘れちゃってて。」
彼がここにはいない誰かを見つめていることに嫉妬して、わたしは声をかけた。数秒してから、彼の瞳がわたしを捉えた。
「ううん、大丈夫。そういうこともあるよ。」
彼の声はとても聞き心地がいい。ふかふかの布団にくるまれているような気持ちよさを味わえる。
わたしに向ける視線もあたたかい。笑顔もやわらかくて、カメラを持っていたらシャッターを切っただろうな、なんて思う。
彼の声も視線も笑顔も、彼の全部をわたしが独占できたらいいのに。
ああ、彼と隣の席になれたあの日から、わたしはワガママになりすぎている。
彼の顔にオレンジ色の光が差して、影ができる。その美しさをいつまでも、わたしが独り占めできたらいいのに。
彼の持つシャーペンは淀みなくスラスラと動いている。
日誌は未だ真っ白のままだ。