さよならを言う前に、もっと他に言わなければいけないことがあった気がする。言い忘れていたことがたくさんあったようにも思える。何だったっけ。
ありがとう、こめんなさい、大好きだよ、とか。
今なら照れ臭いことも言えてしまう気がするのに、口がまともに動いてくれない。
ああ、泣かないで、って言いたいなあ。手を動かして、頬に伝うその涙を拭ってあげられたらなあ。
震えた手が、動かなくなったわたしの手に触れる。温もりがとても優しくて気持ちがよくて、身体に残ったわずかな力も浄化されていくような、そんな気になる。
「死なないで。」
泣いている。お母さんが泣いている。わたしを愛してくれたお母さんが泣いている。
最後の力をさよならの四文字に込めるのは間違いだったかもしれない。
お母さんが泣いているのに、わたしは何もできないまま、瞼を下ろした。
だから、一人でいたい。一人でいたかった。一人でよかった。
人の情は永遠じゃない。その温もりがぷつりと途切れた時、苦しむのは他でもないわたしだ。
笑いかけてくれたあの子も、好きなものの話を楽しそうにしたあの子も、担任が嫌いと愚痴をこぼしたあの子も、もういない。
いるのは、わたしをきつく睨みつける人達だけ。その人達に囲まれて、かすかに口元を緩める子が一人いるけれど。
「最低。」
冷たく鋭い四文字が、温もりを求め続ける心を切り裂いていく。
だから、一人でよかったんだ。わたしみたいな人間は、一生一人でよかったのに。
彼女の澄んだ瞳がわたしを捉えていた。
黒髪に黒い瞳、似合っていない薄いだけのメイク。耳や手、首元に装飾は一切ない。ダサいようにも見えるシンプルな服。
わたしはこんな子に負けた。いや、こんな子だからわたしに勝てたのかもしれない。
大学生になってすぐ茶色に染めた髪、カラコンは必須だし、ナチュラルに見せるためのメイクも毎朝一時間以上かけて作っている。アクセサリーもファッションも流行は逃さないし、SNSに乗せればいいねは三桁に昇る。
こんなわたしだから、こんな子に負けたんだ。
わたしが一生懸命気を引こうとした彼の心を、彼女は無意識のうちに射止めてしまった。
神様がもしこの世にいるのなら、わたしは弓を引いて殺してしまおうと思う。
だって、ずるい。こんなに努力したわたしが、素のままで生活するだけの彼女に負けるなんて。
「こんなこと思うから、負けたんだろうなあ。」
わたしの言葉に彼女は首を傾げた。
全然可愛くないし、様になっていないのに、彼女が彼を射止めた理由が分かってしまうような気がする。
「もう終わりにしよう。」
銃口はわたしの額を捉えていた。
「それはこっちの台詞よ。」
動揺を隠すため、相手を精一杯睨みつける。けれど、彼はそれを全て知っていると言うように、口元にわずかな笑みを浮かべた。
遠くから銃声が聞こえてくる。爆発音や建物が崩れ落ちる音、悲惨な音の隙間からは誰かの悲鳴が聞こえる。
こんなこと、もう終わらせなければいけない。上の人間の欲を満たすためだけの戦争なんて、馬鹿げている。
誰にも言えない思いを、もし、今わたしに銃口を向ける彼も持っているとするのなら。
わたしはどこから間違っていたのだろう。
「くだらない。」
「同感だ。」
「あのクソデブ達を殺してやりたかった。」
「ああ、そうだな。俺がちゃんと殺してやるよ。最初はお前だけどな。」
視界がすでに歪んでいた。まばたきをすれば、溢れてはいけないものが溢れてしまうとすぐに分かった。だから、睨みたくない彼を睨みつけていた。
誰かの痛々しい悲鳴が聞こえる。幼い泣き声も聞こえる。そして、絶えず爆発音が響いている。
「ごめんなさい。」
まぶたを下ろした。遠くで銃声が聞こえた。
1件のLINEをずっと待ち続けている。
【今どこ?】
そっけないわたしのメッセージにいつ返信が来るだろうか。
どこでもいい、どこかにいてほしい。
家とか車の中とか学校とか、旅行先でもいい。新しい友達の家でもいい。本当はわたしのすぐ隣にいてくれたら一番だけれど、どこでもいいから早く返信をちょうだい。
ずっとずっと同じ画面を見つめている。やがて電源が落ちて、画面に映るのはくたびれたわたしの顔。もう一度画面に光を灯して、ブルーライトをひたすら浴びる。
もうLINEを送ったのは1年前なのに。返信は一向に来ない。既読すらついていない。
ああ、早く返信をちょうだい。じゃないとわたし、眠れない。