私は、静かに目を開いた。
天井近くにある、唯一の窓から、朝の光が差し込んでくる。
ここは、塔の上にある小さな王廟だった。この石造りの建物の中には、先祖を祀った正面の祭壇と、今私が腰掛けている椅子、水差しの乗った小さな卓しかない。
即位を控えた前夜は、王子の位を返上し、この廟に籠もるーー国の決まりにより、今だけは、私はどんな身分でもなく、全ての狭間にいた。
昨晩から、一人ここで過ごしている間に聞こえたのは、遠くで獣の吠える声、そしてーー、
「あなたたちは、私を受け入れていないのだな」
私は、祭壇に向かい、口の端を歪めて笑った。
しんと冷えた闇の中にいると、過去の王たちが私を責める声が、呪詛のように染み出してくるように感じたのだ。
それは、愚かな王になろうとする子孫を咎める賢王たちの声が本当に届いたのか、はたまた私の中に、まだためらう気持ちが残っているのか。
「だが、後戻りはできない」
私は、豪奢な衣の裾を払って、立ち上がった。
確実に王位を継ぐために、兄を陥れ、父王の死期が早まるように画策した。少しずつ準備を進めてきた隣国との戦も、やがて始まるだろう。
自分のしてきたことの重みは、誰よりもよくわかっている。これから、大きな波が襲いくるだろうことも。それでも、成し遂げたいことがあった。
王廟の扉が、外から開いた。
「即位式のお時間です」
私は頷いて、足を踏み出した。
風の音に混じって、どこかで時を告げる鳥の声が、聞こえた気がした。
『狭間の終わり』
(嵐が来ようとも)
今日は、一年で一番日が長くなる。魔力が強まるこの日は、毎年、国で大掛かりな祭りが開かれ、あちこちに催しのテントが出る。
わたしにとっても、特別な手助けをする、忙しい一日だ。
「お次の方、どうぞ」
わたしは、自分のテントに入ってきた少年を、木の椅子に座らせ、目を閉じるように促した。
吊りズボンを履いた少年は、大人しく言われるがままに腰を掛けたが、握った拳に緊張が表れていた。
無理もない。これで、自分の運命が決まるのだから。
わたしは息を吸うと、右手に持っていた一振りの枝をかざした。特殊な力を含む実がなった、ハイゼルの枝だ。
さらさらと、少年の顔の前で、その枝を上下に動かす。
ーーこの者の、秘めたる力が、現れますように。
そして口の中で、呪文を唱える。手に持った枝が熱くなり、願いに応えるように震えた。
「いいわ、開けてみて」
ぱっと、少年が目を開く。その茶色い瞳の奥には、先ほどまではなかった、小さな赤い花が映っていた。
「赤ーー〈炎〉の力ね」
「ほんと⁉︎ やった!」
少年が顔を輝かせて、ぴょんと椅子から飛び降りた。テーブルの上にある鏡を覗き込む。
「父ちゃんと一緒だ」
その様子に、思わず頬が緩んだ。
「よかったね」
「うん、ありがとう!」
魔力を持つ者は、瞳の中に、その力に沿った色の花が咲く。
だが、その種が芽吹くのは、一年にたった一日、今日という日にだけ。そして、〈時〉の魔力を持った者に、種の成長を手伝ってもらう必要があった。
テントから出ていきかけた少年が、こちらを振り返った。
「お姉さんは、何の花の人ーー?」
わたしは微笑んだ。
わたしの瞳の中の花は、もうほとんど見えないくらい、色が薄くなっている。〈時〉の魔力のおかげで、この外見からは想像もつかないだろう、長い時を生きてきたから。
外から、少年を呼ぶ、両親の声がする。
「花を、咲かせる手伝いをする人よ」
そう告げて、テントの外へ彼を送り出す。
きっと、わたしの花はもうすぐ散るだろう。でも、瞳の中に色鮮やかに開く、たくさんの花を見てこれたおかげで、心残りはあまりない。
ただ、もし一つ願いが叶うならーーめったにない、〈時〉の花の芽吹きに、立ち会うことができたらいいなと思っている。
『瞳の種』
(花咲いて)
湿っぽい洞窟から、鉄格子越しに見える、綺麗なもの。
ーーあそこに見えるのは、なあに?
そう聞いた私を哀れに思ったのか、「あの青い色は、空だ」と教えてくれたのは、年老いた牢番だった。
山の中ほどにある、この洞窟は、入り口に鉄格子がはめられ、牢屋として使われていた。
ーー村を大きな嵐が襲った夜に、生まれた忌み子は、怪異となりて災いをもたらす。しかし手を下せば呪いが返るため、生かして封じるべしーーそんな言い伝えのもとに、私は物心がついた頃から、この牢屋に閉じ込められていた。
一日一回、差し入れられる食事。洞窟の奥の囲いの中で、用を足す。それ以外に、私ができることといったら、外を眺め、牢番に話しかけてみることだけだった。
そんな、変わり映えのない毎日が続いていく。
牢番は、数人の村人が交代でついているようだった。ほとんどの牢番は、私と言葉を交わすと呪われると思っているのか、返事があることはまれだった。
だが、その中で一人、その年老いた番人だけは、私に色んなことを教えてくれた。物の名前も、天候の見方も、村の言い伝えも。
ぼそぼそと、白いひげの下から出てくる言葉は、水のように、渇いた私に染み込んだ。亡くなった孫娘と私の背格好が似ているから、と彼は言った。
私にとって、単なる“外”でしかなかった場所は、空であり、大地であり、鮮やかな色がついている世界なのだと、知った。
そうして、知ってしまったがゆえに。
自分が当たり前だと思っていたものはーーごく一部の切り取られた景色で、私はここから出ることを許されないことが、ひどく苦しくなったのだ。
もっと、たくさんのものを。広い空を見てみたい。
握りしめた鉄格子から、きしむ音がした。
もし、私が、本当に災いであるなら。この牢を砕いて、外に出ることも叶うだろうか。
『その空の先を望んで』
(私の当たり前)
「お願い、点いて……!」
わたしは、目の前の消えかけたかがり火に向かって、必死に手をのばした。
わたしたちの住むこの街は、別名、〈眠り風の街〉とも呼ばれている。
ある時から、東の山脈から吹きおろしてくる夜の風に、何か甘い香りが混じり始めた。その山から運ばれる何かが、人々を強制的に、深い眠りに落とすのだ。建物の中に入り、扉や窓をぴったりと閉めても、それは防ぐことができなかった。
そして、一度眠りについてしまえば、水や食べ物を摂ることもできず、そのまま体が弱り死を待つことしかできない。
それを避けられる唯一の方法は、街を囲むように、特殊なかがり火を灯し続けることだった。風の香りを、この火でなら打ち消すことができるのだ。
わたしを含む、呪文を使える数人が、交代でこのかがり火を守っている。
「代われ!」
離れた場所にいた、わたしの先生がこちらに駆け寄り、呪文を唱えつつ、かがり火に手をかざした。
ぼうっと、火が勢いよく燃え上がった。周囲が強い炎に照らされ、明るさを取り戻す。
わたしは、肩の力が抜けて、よろめいた。
よかった……。
先生の厳しい目が、こちらを見下ろしていた。
「次、行くぞ」
「はい……!」
気を取り直して、次のかがり火の場所へと向かう。
風の秘密が解明されるのが先か、街の人々が別の土地へ移住するのが先か。ともかく、それまではこの火を絶やすわけにはいかないのだ。死の眠りを遠ざける、この街の火を。
『火の守り手』
(街の明かり)
そっと、扉を叩く音がする。
そこから顔を覗かせた、一年ぶりの愛しい人ーー彦星ーーに駆け寄り、私たちは抱きしめあった。
「変わりはないか?」
そう尋ねてくれる優しい声に、うなずく。
彦星は、私に一つの贈り物を持って来てくれていた。
包みを開けてみると、丸い小さな鏡が出てきた。無数の光がちりばめられて、手のひらの中で輝きを放っている。
「綺麗…」
「星の欠片を集めて、磨いて作ったんだ」
と、彦星は自分の懐からも同じものを出した。
「これで、離れていても、お互いの顔を映し出すことができる」
声は届けることができないんだが、と残念そうに言うけれど、私は、その気持ちがうれしかった。
「牛追いの仕事の傍ら、これを作るのは大変だったでしょう」
しかも、私の父である天帝の見張りの目が、光っている中で。
「いや、会えないことに比べたら、そんなことはない」
彦星は、星の鏡を持つ私の両手を、しっかりと握った。
「もう少しの辛抱だよ」
「ええ、私の方も、もうすぐ伝え終わるわ」
数年前に、こうして会った時、私は彦星に心の内を漏らした。ーーやはり、一年に一度しか会えないのはおかしい。遥か昔、私たちが共に暮らしていた時、仕事に身が入らない落ち度はたしかにあった。けれども、もう今はそんなことはないのに、と。
いくら天帝であっても、こんなやり方は横暴だと訴える私の話を聞いていた彦星が言ったのだ。一つ方法がある、と。
それは、私たちの仕事を周りに伝え、分けること、だった。私の機織りの術を、共に暮らす側女たちに。彦星の牛の扱い方を、周囲の童たちに。
二人が少し持ち場を離れても、天界の動きが決して止まらないように。
「年数はかかるが、これなら会う時間を作れるようになる。きっと天帝もお許しくださるよ」
私たちは目を見交わして、その日が来ることを心から願った。
『星の鏡』
(七夕)