隠された手紙
私が居なくなっても寂しくないように。
残りわずかな時間に嘆く姿を一切見せなかった彼女が最後に残したイタズラは私に穏やかな痛みと愛しさを与えた。
もう家に戻ることはないとわかっていたのだろう。いつから準備したのだろうか。
病室のベットでか細い息を繰り返す中でも微笑んでいた我が子は常に自分より遺される親に心を痛めるような強い誇り高い娘だった。
何もしてやれない事を嘆く親の言葉を遮って体温の冷えた手をこちらに向ける。思わず縋り付くように手を取って少しでも己の体温が我が子に行くことを願い両手で温めた。
そんな姿に嬉しそうに目を細め、そして彼女はいったのだ。
『パパとママが、寂しくならないようにお家に手紙をたくさん隠したの。』
私が居なくなってしまっても、ずっとそばに居るからね。そういって微笑む姿はすぐにでも消えてしまいそうで。目の前が滲む。思い出す事すら辛かった。
ふと、そんなやりとりを思い出したのは彼女が空に上がってしまって数年も経った日。
いい加減に遺品整理を始めないといけないと娘の部屋を片付け始めた時だった。
『パパ、お寿司に連れてってくれてありがとう。美味しかった』
引き出しに入った小さなメッセージカード。
もう力も上手く入らなかったのかもしれない。必死に書いたであろう文字が書いた感謝の言葉に思わず嗚咽が漏れた。
隣に立ち尽くした夫に手渡した手紙が涙に濡れる。
蹲るようにして手紙を抱きしめる背中をギュッと抱きしめて、そして立ち上がる。まだあるかもしれない。あの子は『たくさん』と言っていた。
これはゲームだ。あの子が残した私たちへの挑戦状。
手紙は至る所から出てくる。
『ママ、いつも美味しいご飯ありがとう』
『パパとママと遊園地に行くのが好きだった。』
『パパが頭を洗ってくれるとちょっと痛かったよ』
遺品を片付ける手が進まない。
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら夫に二人で震える手で彼女の残り香を確かめた。
本当は怖かった。
整理をするということは終わりを突きつけられる事と同義だ。どこかで娘の未来を信じたい。その気持ちの整理と向き合わないといけない事から逃げていた。
そんな気持ちを娘はわかっていたのかもしれない。
一つ整理するたびに私はここに居る、とあの子は全力で訴えかけてくるのだ。ここに居る、寂しくないよと。
部屋が綺麗に片付く頃に、お互い腫れ過ぎた目を擦って夫婦で笑い合う。互いの手には無数のカード。愛する娘が生きた証だった。
きっと死ぬまで手放す事はないだろう。
この宝を抱いて生きていく。
悲しみだけではない。愛しさは無限に湧いてくる。
そんか娘が誇りだった。
私達は二人、あの子に渡せる日が来る時に向けて手紙を書いた。お返しだと笑って渡せる日まで、仏壇にひっそりと隠す。
いつかあの子にまた会える時までこの手紙と共に私達は一緒に生きていく。ずっとずっと一緒に。
旅の途中
『そうだ、京都に行こう』
あれはキャッチーなフレーズだなと感心した。
CMとして完璧だと思ったのは今も昔も変わらない。
あのCMが流れなくなっても幾久しく。
変わらず頭から消えることがない事からも完成度の高さを証明している。
いそいそと旅支度をしながら山下達郎を口ずさむ。今やクリスマスの定番ソングになったクリスマスイブもCMソングが広まった起源ではないだろうか。
クリスマスもひと月前に終わってしまって次のクリスマスまでまだまだあるけれど、旅支度をする時にこの歌を歌いながらするのもまた、自分なりのルーティンだ。
いろんなことがあっても、失うものも得るものも沢山あった中でいつも人生の軌道修正は旅と共にある。
人生という旅に普段と違う旅行というスパイスを一振り。思いついた時には必ず頭をよぎる。
『そうだ、京都に行こう』
煮詰まっても絶望しても人生は続く。
続く限り終わらない。
終わらないから何度だって線路に無数にある転てつ機を見つけられるのだ。
『絶望したら、美味いもの食べて寝るかな!』
いつか見たドラマのセリフ。あれも人生で見つけた分岐点だ。世界はたくさんの分岐点に満ちている。
バン!と勢いよくキャリーを締めて立ち上がる。
拳を振り上げて反対の手でキャリーを持った。
『そうだ!京都にいくぞ!!』
おー!なんて元気よく空元気をあげる自分の姿がなんだか妙におかしくて一人でケタケタと笑った。
私の旅はまだまだ始まったばかりです。
小さな勇気
凍てつくような寒い日が少し緩んできたような気がする。
目が覚めてカーテンを開けるたびに窓ガラスについていた水滴がない事に気がついた時、そろそろ訪れる春の兆しに心が弾んだ。
テレビでは花粉飛散のニュースが天気予報に混じる。
チョコレートチップの入った甘いパンとカフェオレはお気に入りの朝の定番メニューだけど、今日はホットではなくアイスにした。
いってきます、いってらっしゃい。
いつもの朝のやりとりがちょっとだけ特別に見える。
ほんの少し薄暗かった朝の登下校もすっかり陽が昇っている。ひと月も前ならこの時間では薄暗かったのに早いものだ。
この時間、まだ登校には少し早い。
道すがら駅に向かう人もまばらだ。
この登校もあと少し。
3月までの数える程の時間になってあっという間だった高校生活が、あれだけ憂鬱だったのにほんのちょっぴり愛おしく思えた。現金だなぁと手に持った鞄をガチャガチャ鳴らして駅まで急いだ。
『よぅ!早いな!』
声をかけられて振り向く。
相手が誰かは知っていて誰かわからないフリをして振り向く。
『わぁ!驚いた。誰かと思った!』
自分の中で最高の笑顔を意識して声をかける。
白々しく誰かわからなかったよ、なんて。
貴方に会いたくて何本か電車を早く乗っているのなんて知られたくない。あくまで自然に振る舞って挨拶をする。あとちょっと、3月までのこの時間を大切にしたい。
取り止めもない会話が楽しいのは春が近いせいかもしれない。ほんの少し、ほんの少しだけ勇気があればなぁ。
いつか渡したくて、渡せると思って。
鞄の中に忍ばせた手紙はいまなお鞄の中で息を潜めて春が来るのを待っている。
風のいたずら
『キャア…あ?!』
思わず首を45℃に傾けた耳元を猛スピードで飛び去っていくものが視界の片隅に映る。
ヤベェ、ヤベェよ、俺の反射神経神ってる!
ドキドキと胸打つ鼓動に手を当てて冷や汗を拭った。
『ごめんなさーい!』
振り返った先にバタバタと足音を立てながら駆け寄ってくる姿が見えた。
『大丈夫ですか!すみません!』
平謝りする目の前の子供は年頃は小学生だろうか。
『いや、大丈夫だけど…』
子供の手前取り乱すようなカッコ悪い真似は出来ない。
大人として、男として、さっきの絹を裂くような悲鳴をあげたことも忘れて貰いたい。
フッと髪をかきあげて平気なふりをした姿がツボったようだ。目の前の子供がかっけーと言ったのを俺は聞き逃さない。そうだろう、俺はかっこいい。
『フリスビーか?』
『そう!なかなか上手くいかなくてさ』
手首をクイックする真似をしながら唇を尖らせて投げる真似をする子供にふーん、と思う。
これはカッコいい大人としての姿を見せてやるべきか。
『それ、貸してよ。教えてやるよ、投げ方』
斜め45度の右上の空を眺めながらぶっきらぼうに言ってみる。空が青い。良い風だ。
『マジ?!にいちゃん出来んの?!』
頬を赤らめて嬉しそうにうおおおおと叫び、ピョコンと飛び上がったと思ったらフリスビーに駆け寄る後ろ姿にこちらも俄然やる気になった。
いっちょ漢を見せてやる。
『よし!こっちに投げてみろ!!』
ばっちこい、と背負っていた鞄を草むらに投げ捨てて受け取る体制をとる。
パチンと膝を屈めて叩いた。風上からの風は強い。
『いっくよー!』
目の前の子供は嬉しそうにフリスビーを大きく振りかぶって…
『いけぇぇぇ!!』
力一杯こちらに向かって振りかぶる。
フリスビーは縦に向き、追い風に煽られて勢いよくこちらに向かって飛んで…いや、勢いが良すぎな…
スコーン
見事に俺の額にぶち当たった。
『いってええええ!!』
『にいちゃーーん!』
うずくまって頭を抱える俺と慌ててこちらに駆け寄る子供。
声高な2人の叫び声は風に乗って空高く何処までも遠くに響いていった。
変わらないものはない
時間が止まらないんだから変わらないものはない。
変わる事を恐れるな!なんていうけど変わりたくないものだってあっていいと思うんだよ。
変わっていく事と変わらないでいたいと願う事って両立出来ると思わない?
時が過ぎて、季節が過ぎて、街並みが変わって、
見るもの全てが懐かしく思う日が来ても、
それでも大切に変わらない、色褪せないものを思う気持ちって大事にしたいの。
そう言って笑った彼女は今でも元気にしてるだろうか。
時間が経って、関係が変わって、周りの人たちが通り過ぎてしまっても、それでも変わらずそこにいる。
そういう気持ちにはきっと努力が必要で
そういう努力を頑張らないで気楽に出来るような自分になりたい。
変わらないものはないけれど
変わらなかったねと笑えるように。