君と僕
『愛してるよ』
雄大に広がる大海原を見下ろす位置に立つ石の箱を前に呟いた声は打ち手は返すさざなみの音にかき消えた。
死んだら海に帰りたい。
冗談めかして笑った目が、ふとため息とともに力なく諦めの色を濃くしたのに気がついていた。あの時何も返せなかった言葉を今更呟いたところで届くのだろうか。
暮夜のうす暗い世界にたった一人で水面を眺める。
静かでただひたすらに海だけが広がる世界に煌々と月の光が降り注ぐ。潮の匂いだけが強烈に鼻腔に残った。
『ごめんね』
墓標の石は冷たくて、潮風が強く髪を揺らす。
呟いた声は風が何処かに運んで行った。
君の帰る場所になれなかった。
もっと愛していると伝えていれば、君は海ではなく僕のところに帰ってきてくれたのだろうか。
目に痛む程の満月に照らされた墓石は答えない。
『あぁ、月が綺麗だ。』
思わず呟く。
もっと素直になれていたら君を神様に奪われなかっただろうか。太陽みたいなあの笑顔が思い出せない。届くことがない問いかけの答えはこれよりひとりぼっちで永遠の夜を生きる自分にはもうわからない。
『月が綺麗だ。本当に綺麗だ。』
何度も何度も呟いても君に届くことはないだろう。
それでも、またいつか。
生まれ変わる事が出来たら今度こそは。
あの空に輝く満月のように素直に。
そうすればまた輝くばかりのお日様のような君の笑顔に出会えるだろうか。今は夜の闇のそのまた向こうにいる愛しい太陽に語りかけた。
墓石は答えない。
答えないから一方的に告げた。
喉元まで出たまたね、の単語を一度呑み込む。
そして
『じゃあね』
月夜の夜に誓う心はきみを想う。
ずっと想う。
今世も、来世も。
ミセスの新曲良かった。
安倍晴明vsクラウドvsケフカ
桜
ピンク色で可愛いね。
まだまだ生まれてまもないこの幼児はまだ届くはずのない腕を目一杯伸ばして小さな手のひらを天に向かって伸ばした。
おさなご特有のふわふわしたいのちを好ましく思う。
人間というのは本当に摩訶不思議だ。
幼ければこのように純粋に美しさを言葉にする事に憚らないのに年輪を重ねれば重ねるほどやれ人の生き血を吸って色を染めるだの、逢瀬の待合場にするだの、酒席の寄り合い場にされた時の吐き散らかされた行き場のないごもくたの異臭には辟易していた。
失礼な話だ。
この穢れなき心を何処に置き忘れるのか。
お前はそうなってくれるなよ。
桜の君は愛しそうに、そして少し諦めたように笑ってまだまだ小さな手を握り返した。
『お母さん、貰ったよ』
小さな我が子が突然嬉しそうに笑う。
広げた手のひらには薄紅に染まる小さな花びらが。
『良かったね、桜の精さんにありがとうだね。』
しゃがみ込んで目を合わせるとパチクリとした大きな目が桜を見上げた。まるでそこに誰か居るかのようにしっかりと見据えた子はそこに居る誰かに向かってありがとう、と返す。
もしかしたら本当に居るのかなぁ。
子供って不思議。小さい時は見えたものが大きくなったらどうして見えなくなってしまうんだろう。
大事なものを抱えるみたいに両手で大切に花びらを抱える小さな手を見ながら羨ましいような、懐かしいような気持ちで桜を見上げた。
はじめまして
ひらりひらりと薄紅色の花びらが舞う、風の強い日だった。
平凡な家に生まれて平凡に生きていた。
父がいて母がいて、『普通』に愛されるという事が幼い頃からどれだけ恵まれて幸福なものかをわかっていたように思う。
望みすぎる事は罪だ。多くを望みすぎて失うものを知っている。子供の頃から子供らしくないと苦笑される程達観した人間だったと我ながら思う。
それでも何か満たされなかった。
何かをずっと探していた。それを探し出す為に生まれてきたとすら言える何かを。
だから母は俺によく言い聞かせた。
『せっかく産まれてきたんだから、幸せになりなさい』と。
それは風の強い日だった。
小春日和の穏やかな日に唐突に突風が吹く。
せっかく咲いた美しい桜の花がひらひらと舞い散る。
残念だと思うと同時にその儚さに見惚れて立ち尽くす。
ふと少し先に同じように立ち尽くした後ろ姿が見えた。
その後ろ姿に見覚えがある。沸き立つような気持ちに覚えがある。忙しなく鳴り始めた鼓動に抑えられない衝動が混じる。
忘れかけていた何かを見つけた気がした。
それが何かはわからない。
長い三つ編み、立ち姿、振り返る瞳が驚きに満ちていた。思い出せない。思い出せないけれど強烈な懐かしさが込み上げた。
『あ、あの…』
声をかけてみたけれど話の続きが出て来なかった。
元々人付き合いは得意ではない。初対面の知らない男に声を急にかけられてどう思うだろう。勢いに任せて声をかけたことを後悔する。完全に不審者ではないか。
二の句が告げられずにしどろもどろになる俺を見てこちらを見ながら困ったようにしていた彼女はニコリと笑う。満開の桜が咲くような朗らかな笑顔はいつか何処かで見ていたような記憶を思い起こさせる可愛らしさで。
『あ!よかったら、これ一緒に食べますか?』
手に持った三色団子を差し出してくる。
唖然とするこちらを見てしまった、という顔をする。え、え、違いますか?ごめんなさい。と真っ赤になって慌て出す姿に吹き出した。
『ごめんなさい、はじめて会った方なのに。何処かでお会いした事があるような気がして。』
真っ赤になって下を向いてしまった彼女が自分と同じものを感じてくれていた事が嬉しくて涙が出そうになる程に嬉しい。
『良ければ御相伴に預かってもいいでしょうか』
もしも前世があるとしたならばきっとその時もこんな始まり方だったのだろう。あまりの見覚えがありすぎるやりとりを舞い散る桜が祝福してくれているようだった。
『はじめまして、俺の名前は』
願いが一つ叶うならば
もしも願いが叶うなら
吐息を白い薔薇に変えて
そんな歌があった気がする。
テーブルの上に飾られた自分の気持ちのようにほんのりと枯れた花びらをひとつだけ摘んで、意地悪くプチリと引き離した。まだ離れたくないと言いたげに力任せに引き抜かれた花びらを追うように花は揺れる。
一枚、また一枚と引き抜いてくる、こない、くると花占いをする。すればするほどに虚しくなるこの気持ちをなんとしよう。
ため息は吐息よりも明確に切なさよりも悲しみと怒りと少しだけの憎しみを添えた。
テーブルに散った花びらの数だけ、
もしも願いを叶えられるならば、
ただひとつだけの願いに束ねてこの薔薇を咲き誇らせたい。
終わった時間を認められない心を表すような
諦めて枯れきることの出来ないこの心が、満開の薔薇を咲き誇らせていた時に戻れるように。
あの日の温もり
しんしんと降り積もる雪を窓辺で眺めながら冷えた部屋で両手を擦って温める。
焚いたはずの暖房はこんなにも雪に覆われた山中の一軒家を暖めるには足りないようだった。
室内温度は10度を行くか行かないか。
外に出れば濡らしたタオルはすぐに氷のように冷たく固まってしまう、そんな夜だった。
冬はあまり好きではない。
土地柄、どうしても骨身に染みるような寒さになるこの土地で一面見渡す限りの白に埋め尽くされてしまうと
まるで真っ白な世界に飲み込まれてしまう気がする。
一面の銀世界は美しさに輝きながらも、人の身では決して敵わない自然の脅威を物語る。
そういえば。
ふと思い出した懐かしい話。
世界にはたくさんの神様がいるけど、雪の神様は日本にしかいないんだって。誰が言ってたかな。
世界にたくさんいる神様の中で雪に神様を見出すのは八百万を神として大切にする日本人らしい感性ではないか、そんな話を祖母としたんだったか。
年月を重ねたシワに苦労と慈しみを満たした手で幼子の頭を撫でながら身の回りの何もかもを大切にした。
あの手が作ってくれた大根の温かいスープの美味しさが充したのは子供心にお腹だけではなかったようだ。
窓の外では降り止むことがなくしんしんと雪は降り積もりつづける。
なんだか懐かしい味が恋しくなってきた。
いまだに祖母のあの優しさに満たされた温かい手に届かないがこの凍えた手を揉みながらスープの再現に挑戦してみようか。
悴む体をぐいっと伸ばして大根はあったかしらと一人ごちながら台所に向かった。