あの日の温もり
しんしんと降り積もる雪を窓辺で眺めながら冷えた部屋で両手を擦って温める。
焚いたはずの暖房はこんなにも雪に覆われた山中の一軒家を暖めるには足りないようだった。
室内温度は10度を行くか行かないか。
外に出れば濡らしたタオルはすぐに氷のように冷たく固まってしまう、そんな夜だった。
冬はあまり好きではない。
土地柄、どうしても骨身に染みるような寒さになるこの土地で一面見渡す限りの白に埋め尽くされてしまうと
まるで真っ白な世界に飲み込まれてしまう気がする。
一面の銀世界は美しさに輝きながらも、人の身では決して敵わない自然の脅威を物語る。
そういえば。
ふと思い出した懐かしい話。
世界にはたくさんの神様がいるけど、雪の神様は日本にしかいないんだって。誰が言ってたかな。
世界にたくさんいる神様の中で雪に神様を見出すのは八百万を神として大切にする日本人らしい感性ではないか、そんな話を祖母としたんだったか。
年月を重ねたシワに苦労と慈しみを満たした手で幼子の頭を撫でながら身の回りの何もかもを大切にした。
あの手が作ってくれた大根の温かいスープの美味しさが充したのは子供心にお腹だけではなかったようだ。
窓の外では降り止むことがなくしんしんと雪は降り積もりつづける。
なんだか懐かしい味が恋しくなってきた。
いまだに祖母のあの優しさに満たされた温かい手に届かないがこの凍えた手を揉みながらスープの再現に挑戦してみようか。
悴む体をぐいっと伸ばして大根はあったかしらと一人ごちながら台所に向かった。
君と見た虹
世の中生きてると苦しいことばっかりが目の前で起こるからそればっかり見えるんだよ。下ばっかり見てたら悲しい事しか見えないでしょう?
いつまでもメソメソしてんじゃないわよ、と鼻息荒くため息をついて、上を見ろと力一杯背中を叩かれる。
いつだって前向きなあの人の十八番は『上を向いて歩こう』だった。
涙が溢れないように、なんて後ろ向きな理由じゃなく空を見上げてみなさいよ。幸せは空の上にあるんだから。
指先がさすが大空には明るい青と白い雲、そして先ほど止んだ雨がもたらした虹の橋が見えた。
こちらは涙が溢れて止まらないというのに手に持ったハンカチで飽きもせずにこちらの顔を力任せにぐいぐいと拭い続けるあの人はこちらの雨は止まないねぇと笑い続ける。
その口から溢れ出る歌声はどこまでも明るく高らかで後ろ暗さが一つもない目の前に広がる晴天のようだった。
幸せは空の上にあって、雲の果てにある。
そんな手に届かない幸せを見つめいても悲しい。
目に見える手が届く不幸に苦しむのと
目に見える手が届かない幸福を追い続ける。
どちらがマシなんだろうか。
恨みがましい声が我ながら出たと思う。
雨雲の気持ちを少しでも晴天に分けて曇らせたい。
そんな気持ちを見透かしたかのようにハの字に曲がった眉をみた瞬間に後悔した。これじゃ八つ当たりじゃないか。後悔と罪悪感と後ろめたさと。手のひらで触れられる程の暗い気持ちを持て余しどんどんと首は下を向いていく。
せっかく慰めてくれたのに。
嫌われてしまうかもしれない。
上どころか前すら向けない弱虫を見て歩いていた足を止めたあの人はスタスタと道を戻ってくると僕の前に立つ。そして
『いだい!!』
首を力任せに上に向けた。
グキっと嫌な音がした。
まさあ物理的な痛みで反撃をされるとは思っていなかった。何をするんだ、と抗議しようとすると目の前には思っていたより真剣な目をしてこちらを見ているあの人がいる。
『知ってる…?』
『え?』
何を言われるのだろう。怒りも忘れてゴクリと喉がなる。真剣な眼差しで真顔のあの人は人差し指を口もとに立てる。
『白って200色あんねん』
『は?』
唐突に出てきたアンミカの顔に頭がハテナで埋め尽くされる。何の話…?戸惑いながら固まっているこちらの顔を見てさらに表情を強張らせたあの人は得意げに腕を組んで話し始めた。
『いやいや、本当の話なんよ。
色の見える仕組みって知ってる?色知覚って感覚で決めてるだけでさ、物理的な決め事があるんじゃないの。
だから白が一色に見える人には一色だけど200あると言われたら200あるしそれ以上あったりするのよ』
痛む首をさすりながら怒りも忘れて唐突な色彩の講釈を聞く。腕を組みながら黒は300あるとも言われているのよね、なんてうんうん首を縦に振りながらあの人は奥深い世界よね…なんて独り言を言っている。そういえばカラーコーディネーターの資格を取ったと言っていたっけ。
『えっと…何の話?』
ヒートアップしていく講釈の意味がわからない。
恐る恐るその意図を尋ねる僕にあの人はニコリと笑う。
『ベンハムの独楽は知ってる?』
『あぁ…』
知っている。目の錯覚を実験する有名な話だ。
高速でグルグルと独楽を回す事で動体視力がついていけなくてまるで独楽とは違う柄の独楽に見えるようになるというものだった。
『それが何なの?』
唐突に始まった話についていけない。
言外にそう言った戸惑いを受けてあの人は小さく微笑んでその意図を語る。
『目に見えるものは心が大きく影響しているんだよ』と。
口元から腕を組み、忙しなく動くあの人の指先は再度僕らの上に広がる大空を指差す。
正確には青く青く広がる大空に掛かる虹の橋を。
『虹ってさ、幸せの象徴っていうじゃない。
どこの国でも虹って幸せや平和、自由の象徴なのに色の見え方って違うんだよ』
知ってた?そう言って笑うあの人は眩しそうに空を見上げる。
『7色なのは日本でね、6色だったり2色だったり。同じものを見ていても人によって感じ方が変わると見えたり見えなかったり。
それってやっぱり文化や歴史や伝統の違いなんだろうね。人は思っているよりも心の色眼鏡をかけてるのかもしれない。』
明るく広がる空に僕は手を伸ばす。
それは絶対に物理的に手が届く事は決してない。
同じ様にあの人も両手を伸ばした。
親指と人差し指で丸を作って虹を囲む仕草をしてこちらを向いて笑った。僕も真似をして同じ様に囲ってみる。
手を伸ばした時と同じ距離。
絶対に手が届く事はないのに何処か近くなった気がした。あの人はふふッと笑いながら楽しそうに捕まえられた?と言う。
手のひらにしまった幸せの虹を忘れないでね。
そう言ったあの人はどこまでも眩しそうに楽しそうに虹を見上げ続けた。
あれから何年も経った。
苦しいことも変わらずあった。
悲しい事もたくさんあった。
辛い事もたくさんあって、僕は空を見上げる。
大きな青い空に白い雲、うっすらかかった小さな虹は先ほどの雨のあとにかかったのだろうか。
そういえば。
あの後楽しそうに空を見上げていたあの人が消え始めた虹を指差して言っていた言葉はなんだっただろうか。
確かハワイの諺だったような気がする。
ポケットから携帯を取り出して『ハワイ 虹 ことわざ』で検索をかけた。画面に映し出されたことわざを見て僕の目からはまた雨が溢れ出した事はどうか秘密にしてほしい。
きっとあの人は今も虹の橋から僕を見て、上を向いて歩こうと楽しそうに歌うのだろう。
※ No Rain, No Rainbow
時間よ止まれ
鏡よ鏡よ鏡さん
世界で一番美しいのはだぁれ。
いつから白雪姫より継母に同情するようになったのか。
若々しく艶やかだった髪に朽ちるように白いものが混じるようになった。
瑞々しかった肌は枯れて、目尻には皺が目立つ。
頬に浮き出たシミは肝斑だろうか。
どんなに高級な美容液も時の流れには敵わない。
祈るように頬を撫でる手は明確に老いを示していた。
悔しい。
あんなにも誇らしかった美しさが鏡の中の自分に見えない。目も口元も髪も指先も。
美しさというステータスがなくなって仕舞えば私に一体何が残るの。
時間が戻るというならば全てを差し出してもいいだろう。艶やかな髪に戻る事を願って積み上げた努力は泡沫の泡のように形にならずに水の泡と消えた。
ツカツカと戻ったキッチンの先には整形外科の広告。
昨日二重にしたいと娘が持ってきたものだった。
可愛ければなんとでもなるのに、そう言った娘の姿に
かつての自分の姿が重なる。
二重にしても歯を矯正しても顔を変えても老いには敵わない。今しか見えない人間に重ねた年月の後の事など考えられない。そんな自分の愚かさを突きつけられている気持ちになった。
人は白雪姫ではいられない。
必ず貴方も鏡を前に過去を妬む日が来るの。
時間が止まれば良いけれど
そんなの絶対ないんだから。
そう言っていた母の言葉を聞く耳がなかった自分は娘に何をしてやれる?
鏡よ鏡よ教えてほしい。
私に何が出来たというの。
手に持ったチラシをぐしゃぐしゃにして苛立ちと共にゴミ箱に捨てた。
未来からの記憶
『僕は戦争で死んだんだ。』
確かに自分が命を賭けて産んだはずの子供がまるで他人の人生を自らの命のように語り出す。そんな摩訶不思議なことが身近で起こったらどう思うか。
前世なんて漫画の中のメルヘンな美しいものばかりでは無い。ヒヤリと背筋に汗が流れるような現実があるらしい。
ブラウン管の向こう側でまことしやかに流れる番組を納豆を片手に食い入るように見つめる親を視界の隅に入れながら私も携帯を片手間にそれを見た。
戦艦の乗組員だったという少年が、かつての自分の生き様を語る。有り得たかもしれない、何かの間違いかもしれない彼に残るその鮮烈な悲劇的なその一生の物語は今を生きる小さな命に何を与えて何を奪うのだろうか。
無念さと後悔、置いて逝かざる得なかった家族への思慕を切々と語る目はとても嘘や思い込みには見えなかった。
小さな指はパソコン画面を指差す。
『これが昔の僕』だと。
画面に映るまだ幼さが残るであろう青年の姿はモザイクがかかって画面越しの人間では顔がわからない。
確かにその指先が示す青年はかつての過去を生きてそして船底と共に沈んだ命なのだという。
12歳になった少年は力強い眼差しで語る。
『戦争のない世界の為に生きたい』と。
80年後の未来から、かつての生きた自分に貴方の生きられなかった先を生きますというメッセージのように思えて生きるという事の重さを思いながらテレビを消した。
※昨日の番組見た感想