はなればなれ
前に進もうとして袖をくいっと引かれた。
ふと振り向くと小さな弟のつむじが見える。
兄弟は全て愛しいが、末の弟は特に目に入れても痛くない。何をしたとしても愛しいし、なんだってしてやれる。己の命すら惜しくない、それを弟が何より嫌がると分かっているとしても。
『ねぇ、どこ行くの?』
握られた袖に皺が寄っている。
そんなに力一杯握らなくても大丈夫。
決して離さないと言外に訴えるように握られた拳に手を添える。
怯えなくても大丈夫。
何処にだって行かない。いつもお前のそばに居る。
添えた手で力の籠る拳を、愛おしむ様に名残惜しい様にそっと撫でる。
目が合わない、下ばかり見つめる弟が愛おしい。
出来れば顔が見たいけれど彼はきっと顔を上げないだろう。出来れば自分も顔を見られたくない。いま、とてもみっともない顔をしているだろう。
兄としての矜持は、最愛の弟に情けない顔を見せる事を許さない。笑っていたかった。頼り甲斐がある、支えていられる。かっこいい、そんな兄で居たい。
ちっぽけすぎる些細で大切なプライドだった。
忘れないで。
ずっと一緒だ。
伝わるだろうか。
それだけが望みだった。
目が覚めたらまだ早朝だった。
久しぶりに懐かしい人の夢を見た。
懐かしすぎて言葉が見つからなかった。
夢だと何処かでわかっていたのに、溢れた気持ちに戸惑って結局は袖を掴む以外出来なかった自分に苦笑する。
せっかく会えたのに。
会いにきてくれたのに。
覚えているのは手の温かさ。
夢だと言うのに記憶と少しも変わらない。
持ち主を現すような温かで慈しみばかり向けられた優しさに目頭が熱くなる。
忘れない。
ずっと一緒だ。
伝わるだろうか。
たとえもう会う事が出来なくても。
秋風
秋風にたなびく雲の絶え間より
漏れいづる月の影のさやけさ
百人一首を丸暗記するたびにかつての日の本の国に
触れる気がする。
空を見上げて夜空を眺める。
かつての日本の空はギラギラとネオンライトが無く
雲一つ見えぬ漆黒の夜を導くように美しく輝く月に護られて居たのだろう。
夜闇に一際輝く月の力の眩しさに照らされて陰のようにたなびく雲はまるでヴェールだ。
こっそりと顔を出しては隠れる様に、人は清らかさを見出したのかと思うとその感性に感服する。
とは言え我々現代人にはセーラームーンの方が身近なのかも知れないけれど。
月の光に導かれ何度も巡り合う
懐かしいフレーズを月を観ながら口ずさむ。
秋風が立たないように。
秋風に負けないそんな人間関係でいたい。
せっかく同じ星の同じ国に生まれたのだから。
また会いましょう
虫の知らせ、というのは本当らしい。
ふと、唐突に頭によぎった懐かしい顔。
その名が紙面の訃報欄に載っていたのに気がついた時、外では蝉ではなく鈴虫が鳴いていた。
逝ってしまった、という寂しさと置いていかれたという切なさは両立する感情なのだ。またね、と別れてからなんとなく疎遠になってしまった。そんなものか、そんなものなのかもしれないな。妙に落ち着かない気持ちで誌面を読み込む。
葬儀の日にちを確かめてカレンダーを見た。
最後に人目でも会いたい、そう思った。
その日は晴れやかな快晴の日だった。
大空に澄み渡るような青が広がっている。
まるで初夏のよう。心温かな貴方の笑顔みたいね。
喪服に履き慣れない黒のパンプスで会場に向かう。
遺影には懐かしい笑顔。そうそう、貴方はとても笑顔の似合う人だった。私の最初のお友達。
歳をとって生活に追われて少し離れてしまったけれど、私たちはずっと一緒に笑い合っていた。
手に持った花を捧げて手を合わせる。
祈る言葉は尽きなくて、会いたい気持ちも尽きなくて、会おうと思えば会えたはずなのに、『いつか』が『いつまでも』あるとそう知らずに信じていた。
まなじりに浮かぶ雫は哀しみではなくて『あい』でありたい。いずれそちらに向かうとき、今度こそは違えぬ約束を果たしましょう。
果たせなかったまたねの約束を改めまして。
棺に向かって一つだけ、最後の約束の更新を。
ススキ
『幽霊の 正体見たり 枯れ尾花』
あの諺を教えてくれたのは誰だったか。
晩秋に差し掛かる穏やかな日に社会に疲れてふと遠出をしたくなった。当てもなく車を走らせる。通り過ぎて行く街並みから離れた場所にある名前も知らない田園で給油を知らせる点滅に気がついた。
ビルに囲まれた街の見えないこの場所にあるのは何処までも広い田畑で、無性にこみあげる懐かしさに胸が痛む。郷愁とも違うジクジクとした痛みの元がわからずに車から降りてトボトボと歩いた。
もうすぐ冬に切り替わるのだろう。
風が冷たい。
もう少し前ならば稲穂が風を遮ってくれたかも知れないが稲刈りも終わり綺麗に揃った畦道には無造作に生えたススキだけが風に揺られて靡いていた。
子供の頃、帰る道すがらススキを片手に帰っていた日を思い出す。あの時誰か隣にいなかったか。
嘘つき。
ふと振り向いた先に小さな子供が立っていた。
本当は覚えてるくせに。
まるで責め立てるような鋭い目が『今の自分』を責めている。腰ほど迄の高さのススキがあの時は背を覆い隠すほどに高く感じた。目の前の子供が、私が、今の私を見つめている。
逃げるの?
嘘つき。
雄弁に語り出す目が、幻だとわかっていても突き刺さった。そうだよ、ズルい大人になったの。
逸らした目の先で黄金色のススキが風に揺れている。
『ススキってお化けみたい』
『知ってる?ススキを幽霊と間違えた諺があるんだよ』
『えー?なにそれ面白い!教えて!』
笑い合う小さな子供が二人。
覚えている、でも思い出したくなかった。
だってアンタ、もう居ないじゃない。
顔を上げれば夕暮れに長い長い影が一つ。
『悔しかったら化けて出てきて見なさいよ』
呟くように囁いた声はススキだけが知っている。
脳裏
思い出す姿はいつも飄々として得体の知れない浮世雲みたいな後ろ姿ばっかりだったな。
ふとした時に名前を呼びそうになる。
その度に自分の中に色濃く残るその影を追いそうになる。そんな己の弱さが嫌だった。
嫌だったからあえてその後ろ姿を背負うことにした。
風にたなびくほど長いトレードマークの着物の丈を
短い羽織にしたのはそんな矛盾そのものを示すようで苦笑する。
フラフラしているようで誰よりも周りを見ていた。
諦めているようで誰よりも命を尊んでいた。
ふざけているようで常に大切なものが何かを捉えていた。
知っている。だって誰よりも近い位置でその背中に護られていたのだから。
三人と1匹で居られればなんでも良かった。
大切で大切で時が止まればいいと願う程に。
本当の本音はそれしかなくて。それ以外いらなくて。
世界とか未来とか難しい事なんて知らないと駄々をこねる姿だけはあの瞳に映したくなくて。
こんなのはただの意地だ。
ただただ、あの目に映る自分の姿に無様な己を見ることができなかった。だから笑った。意地でも心のうちなんて見せてやるかと笑ったんだ。
『行ってらっしゃい』
あの日、僕はちゃんと笑えていましたか。
ねぇ、銀さん。