「そろそろ帰りませんか」
不意に差し出された傘に、一瞬面食らった。
うずくまる体は言われれば確かに冷えていて、どうやら長いこと雨に打たれていたらしい。
きっかけは些細なこと。
売り言葉に買い言葉でもう顔も見たくないと、雨の中飛び出した。自己嫌悪と意地と寂しさが綯い交ぜになって帰るに帰れず、路地裏で時間を潰していたが雨は酷くなるばかりで、だんだん立っているのも億劫になってくる。
雨音に思考もかき乱されて、沈む気持ちをどうにも出来なくなっていた。
差し出された傘の主はさっきからずっと同じ姿勢で、こちらが立ち上がるのを待っている。中腰で疲れないのだろうか。
「力が入らない」
〝お前の顔なんかもう見たくない〟
〝それはこっちの台詞だ〟
荒々しくドアを開ける自分。閉じたドアに投げ付けられた書類がぶつかる音。
――どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。
「長い付き合いだそうで。知らぬ間に積もっていたものがあるんでしょう」
斜めに傾いた傘の影から低く優しい声が響く。
「·····みっともないとこ見せたね」
「いやぁ、誰だってそういう時はありますよ。長い人生、晴ればっかのワケが無い」
「そりゃそうだけど」
「一言ごめん、で済むんじゃないですか」
「それは君の方だろ。アイツとまだ和解してないって聞いたよ」
「私は駄目です。あなたほどあの人と解りあってませんから」
僅かに唇を尖らせたその歳不相応な表情に、思わず笑ってしまう。
「君も案外意地っ張りだね」
「まあ、自覚はあります」
「ふふ」
意地っ張りばかりが集まって、たまりににたまった何かが遂に爆発した。喧嘩というのは、じわじわと雲が広がり、やがて雨が降るのに似ている。
ますます激しくなる雨は、たまっていた何かを洗い流してくれるだろうか。
「傘、持つよ。私の方が背高いし」
傘を受け取り、ゆっくりと立ち上がる。
スーツの裾はもうずぶ濡れだ。
「家に着くまで、何か話してよ」
「·····そうですね。じゃあ、私の好きな蕎麦の話でも」
憂鬱な雨空が、ほんの少し明るくなった気がした。
END
「ところにより雨」
絶対に譲れない。
否定することを許さない。
貶めることを許さない。
邪魔をすることを許さない。
彼の行く道を遮ることを許さない。
他の何を奪われてもいい。
けれど彼を失くすことだけは耐えられない。
何があってもそれは変わることは無い。
死ぬまでこの思いは変わらない。
それくらい特別で、それくらい大切で、それくらい大好きで、それくらい愛してる。
君こそがただ一つ輝ける星。
END
「特別な存在」
バカみたいな事で笑ったり泣いたり怒ったり出来るのは幸せな事なんだなぁ。
END
「バカみたい」
あなたとわたし、世界にたった二人だけ。
フィクションの世界ならこんなに美しいものは無いだろう。関係性としても、物語の完成度としても。
ハッピーエンドでもバッドエンドでも、一つの物語としてその世界が成り立っているなら、こんなに簡潔で美しいものはない。
支離滅裂な、なかば破綻した世界だって、フィクションなら許される。
◆◆◆
昔はきちんと整理整頓されていた。
食器はここ、掃除道具はここ、服はここ。
今はベッドのあちこちに服が散乱し、食べかけのパンがTVの裏から出てくるなんて毎日だ。
机に置いてあるメモは何が書いてあるのかさっぱり分からない。
――昔は毎年自筆の年賀状を出していたのに。
「うー」
これが愛しい恋人の甘えた声なら、どんなに良かったか。
「はいはい」
これがため息と共に出る言葉じゃなかったら、どんなに良かったか。
老いた父の体の向きを変えながら、ベッドの引っかかった汚れた洗濯物に手を伸ばす。
父の介護をするために仕事を辞めて、何年経っただろう。買い物には行くが必要最低限の会話しかしない。友人は私が仕事を辞めた途端疎遠になってしまった。
私もお金が無いから会うのをやめたし。
ここ数年、父と、スーパーの店員さんと、父を担当するケアマネージャーさんと、その三人としか話をしていない。そもそもこれは、会話と言えるのか。
深夜にようやく横になる。
また「うー」と聞こえるが、これは無視する。
私も寝たいんだ。
目を閉じると、父の「うー」と、冷蔵庫の唸りと、眠れない私が身じろぐ音。これしか聞こえなくなって、世界に私と父しかいないような気になってくる。
嫌だ、嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
もう、限界だ。
ふと目を開けると、本棚に並ぶ恋愛小説に酷く腹が立って――。
私は叫び出したい衝動を必死で抑えてまた布団を頭から被り直した。
父はようやく規則正しい寝息を立て始めている。
いっそ、このまま··········。
END
「二人ぼっち」
布団から出ようとして、動きを止めた。
変な違和感があったからだ。
朝になって、陽射しを感じて、温かくなった。
何も不自然なところは無い。いつもの朝だ。
だというのに。
「――?」
コポコポ、ゴウンゴウン。
耳の奥で何かの音がする。更に。
「――?」
視界が一瞬、水に満たされたみたいになる。
「あー·····」
どうやらまだ夢うつつらしい。
寝る前に読んだ本の影響だろうか。SFちっくな夢なんて、滅多に見ないのに。
――いや、違う。
耳に手を当てようとして、手が無い事に気付いた。
「あれ?」
体が動かない。いや、そもそも――。
私のカラダって、ナンダッケ――?
◆◆◆
コポコポ、ゴウンゴウン。
春の陽射しが差し込む研究所。水槽の中で細いケーブルに繋がれた脳が微かに揺れた。
END
「夢が醒める前に」