手に持っていたものがいつの間にか無くなっている。
そんな感じなのだろうか。
ランタンを持って歩いていたら、知らないうちに火が消えて、いずれ持っていた事すら忘れてしまうほど長い時間を取り落としたまま手ぶらで歩いている。
そんな感じなのかもしれない。
持っているという感覚すら無くなってしまうほどそのランタンは長い時間寄り添っていたのに、消えないと思っていた火が消えて、いつかランタンそのものが無くなってしまった。
どこに落としたのかすらもう思い出せない。
もっと写真を撮れば良かった。
もっと録音すれば良かった。
いや、それよりも何よりも、もっと直接話をすれば良かった。
ランタンの火が消えないように、燃料を添えてあげれば良かった。
実の妹の顔も分からなくなった兄は、今日もぼんやり何も無い天井を見上げている。
END
「記憶のランタン」
ちょっとそこに座ってくれる?
うん、いよいよ立冬を過ぎて本格的な冬の到来なんだけどね。
去年まではやっぱりレバーが悪かったなって。
ほら、このダイヤル式にしたからさ。
そうそう、これをゆっくり回せばだんだん寒くなるから。夏の方もダイヤル式に変えとくからね。
あんまり極端だと人間滅んじゃうからね、暑さも寒さも。ゆっくり、ゆっくりね。
分かった? 令和ちゃん。
END
「冬へ」
「アタシはああいう生き方は嫌いだね」
彼女はそう呟いてサングラスを外すと、レンズにはぁ、と息を吐き掛けた。薄い水色のクロスを取り出し、色の濃いレンズを丁寧に拭いている。
拭いては光に透かし、再び息を吐き掛けてまたクロスをあてる。枯れた指でそれを何度も繰り返しながら、彼女は言葉を続けた。
「尽くす愛ってのもそりゃあるんだろうけどね。あの子のアレは半分病気だよ。相手を主役にして自分はまるで意志の無いモブみたいにして」
本人がそれを望んでいるのなら仕方ないのではないか? そう問うと「だから嫌なんだよ」と苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あの子はあの子自身が輝く物語の主役なのに今や心身共にボロボロじゃないか。身を削って心を削ぎ落として、それでも相手を立てて·····」
その痛々しい姿は私も知っている。
私は煙草に火をつけて、ゆっくり紫煙を吐き出した。
「でも·····綺麗ですよ、あの人」
――そう。ボロボロに疲れ果てていても、あの人は何故か綺麗だった。洗練された佇まいがあった。
翳りのあるその横顔を見上げた時、私は凄絶な色香を感じた。冴え冴えと輝く夜空の月のような、冷たさと艶めかしさを、「行け」と短く吐き出した声に感じたのだ。
「だから嫌なんだよ」
彼女はまたそう言ってサングラスを掛け直す。
その声には諦めと、慈愛のようなものが混じっているように私には感じられた。
「だから·····嫌なんだ」
暗黒の海を照らす月のように、あの人はあの方の行く道を照らし続けるのだろう。
自分の心がそれこそ月のように細くなっていってしまうとしても。
「おばあちゃん、そろそろ戻りましょうか」
船室へ向かうドアを開ける。
「誰がおばあちゃんだい」
ジトリとした目を向けられて、私は肩を竦めた。
「冷えてきましたからあったかいココアでも飲みましょう」
凪いだ海は真っ暗で。
煌々と輝く白い月だけがぽっかり浮かんでいた。
END
「君を照らす月」
木漏れ日、という言葉は翻訳出来ないらしい。
正確には、英語に訳すと一つの単語にはならず、完璧に言い換えられる言葉が無いのだそうだ。
なるほど、と思う。
言語というのは面白い。
逆に海外の言葉で日本語では訳せないもの、日本人には意味が分からないものもたくさんある。
そういう言葉を知ることは、文化を知ることでもあるし、自分の語彙力を高めることにもなるのだと思う。
END
「木漏れ日の跡」
この社会は契約で成り立っている。
仕事に就くときの「就業規則」もその一つだろう。
制服の着方、髪型、靴。就業時間、備品の管理·····。
つまり〝ささやかな約束〟の積み重ねだ。
それを守れない人はなんでその会社に入ったんだろうと思う。就業規則に疑問があるなら正式に異議を唱えればいいのに、とも思う。
自由と権利と義務を取り違えてる人が多い気がする。
END
「ささやかな約束」