「風に色なんてないでしょ」
細く白い煙を吐き出しながら彼は投げやりな声でそう言った。
海はどこまでも穏やかで、少し強い陽光にキラキラと波を輝かせている。
僕は彼の、皺の刻まれた横顔を見上げて言葉の続きを待っていた。
「そう見たいっていうキミの心が風に色をつけてるんだよ」
胸にあったチーフを摘んで掲げると、彼は海面に腕を伸ばしてパッと手を離した。
「あ!」
風に乗ってひらひらとチーフが舞う。青いチーフは鳥のように海面を舞い上がり、舞い降り、やがて水に触れると引きずり込まれるようにして海中に没した。
「風なんてものはね、ただ吹いてるだけなの。そこに意味を見出してるのは私らのただのエゴだよ」
その声に微かな寂しさを感じて、僕は彼の横顔をじっと見上げる。
「·····」
この海で彼に何があったのか、僕は知らない。でも彼がこの海の上での生活と、そこを渡る風を深く愛していることだけは分かった。
僕はと言えば、彼の指先に小さく灯る赤とそこから流れる白い煙に、なんという名をつけるべきか悩むだけだった。
END
「青い風」
「遠くへ」と打つと予測変換で「行きたい」と出る。
この一文を見ると例の歌が頭の中に流れてくる。
刷り込みって怖い(笑)。
END
「遠くへ行きたい」
とある国産RPGシリーズの初期のナンバリングが好きな人にはとても馴染みのある鉱物。
そのRPGではこれが世界のエネルギーの源だったり、主人公達を強くする為のアイテムだったり、ラスボスの力を弱体化させる為の秘宝だったりした。
シリーズの途中からクリスタルの無い世界が出てくるようになり、そのRPGを象徴するワードではなくなったのが、子供心に感慨深かったなぁ。
でも、世界を司っている筈のクリスタルが砕け散ってしまわなければ、話が進まなかったんだよね(笑)。
END
「クリスタル」
食べ物なら皿に盛られたカレー、奮発して買った鰻の蒲焼、屋台で買った焼きそば。
食べ物以外なら手持ち花火の火薬、プールの消毒剤、帰って脱ぎ捨てたTシャツの汗。
子供の頃は夏といわず色々な匂いに囲まれていた。
大人になってだんだんそれらと縁遠くなって、今ではすっかり季節の風物詩を気にしないままで生きている。
年老いた母にどろりとしたペースト状の食べ物を食べさせる。
「こぼさないでよ」
母はもう自分が今何を食べたかなんて分からないだろう。テレビに視線を固定したまま、口元に運ばれたスプーンに反応して薄く口を開ける。その視線は決してこちらを見ようとはしない。
テレビに映し出されているのはどこかの花火大会だ。
大きな音を怖がる母の要望で、音は消してしまっている。自分の口元にスプーンを運ぶ見知らぬ女に、視線が注がれることはない。
饐えた匂いが鼻をつく。
食事が終わったら洗濯をしなければ。
「おかあさん」
どろりとしたペーストを唇に押し付ける。
「これ分かる? カレーだよ」
ほとんど匂いのしない薄茶色のペースト。
「おいしい?」
反応は無い。
じわりと額に汗が浮かぶ。エアコンは効いている筈なのに。
母が倒れ、この生活が始まって十年が過ぎた。
子供の頃ワクワクした夏の匂いは私の記憶から徐々に消えていき、汗と排泄物の匂いに上書きされている。
疲れはするし、悲しくなるが、不思議と嫌だとは思わなかった。
END
「夏の匂い」
差し込む光が痛かった。
この部屋の窓の向こうには、遮るものが何も無い。
だから昇る朝日はまっすぐに、この家の壁を照らし、窓から部屋の中へと入り込む。
ゆうべ、カーテンをきちんと閉めていなかったらしい。まだ開けるのに苦労する瞼をゆるゆると持ち上げて、男は差し込む光を睨み付ける。
ベッドの真ん中を貫く光は、まるで男の体を両断しているかのようだった。
「おーい、起きてるかい?」
ノックと共にドアが開いて、同居人が入ってきた。
彼はベッドで半身を起こした男の顔を窺うように中腰になると、「おはよう」と微かに笑った。
「·····」
くぁ、と一つ欠伸をして、男は同居人を見上げる。
顔の半分が朝日に照らされて、もう半分はぼんやり影になっている。
「カーテン」
「ん?」
「カーテン閉めて。眩しくて目が痛ぇんだよ」
彼は無言で立ち上がり、中途半端に開いていたカーテンを両手で閉める。再び男の元へ戻ると癖のある黒髪に手を差し入れた。
「大丈夫かい?」
彼の顔は全部が影になってしまって、男はその表情を見る事が出来ない。でも多分、嫌な顔はしていない筈だ。同居人は男が朝、起きるのに時間が掛かることをよく知っている。
「もう少し寝てな」
声と共にぐ、と肩を押されて男は再びベッドに沈む。
去ろうとする同居人の手首を掴んで「待って」と言うと、彼は少し不機嫌そうに「何?」と答えた。
「アンタの顔が見えない」
「·····バーカ。カーテン閉めろっつったのお前だろ」
「そうだけどちゃんと見れないのはムカつく」
「意味わかんねえよ。見飽きただろこんな顔」
「飽きないよ」
「あっそ。まぁゆっくり寝てな。今日はなんも予定無いし」
「そうする」
「おやすみ」
おはようからおやすみまで。
世話焼きな同居人の顔を淡い光の中で見つめるのが、男の唯一無二の楽しみだった。
END
「カーテン」