食べ物なら皿に盛られたカレー、奮発して買った鰻の蒲焼、屋台で買った焼きそば。
食べ物以外なら手持ち花火の火薬、プールの消毒剤、帰って脱ぎ捨てたTシャツの汗。
子供の頃は夏といわず色々な匂いに囲まれていた。
大人になってだんだんそれらと縁遠くなって、今ではすっかり季節の風物詩を気にしないままで生きている。
年老いた母にどろりとしたペースト状の食べ物を食べさせる。
「こぼさないでよ」
母はもう自分が今何を食べたかなんて分からないだろう。テレビに視線を固定したまま、口元に運ばれたスプーンに反応して薄く口を開ける。その視線は決してこちらを見ようとはしない。
テレビに映し出されているのはどこかの花火大会だ。
大きな音を怖がる母の要望で、音は消してしまっている。自分の口元にスプーンを運ぶ見知らぬ女に、視線が注がれることはない。
饐えた匂いが鼻をつく。
食事が終わったら洗濯をしなければ。
「おかあさん」
どろりとしたペーストを唇に押し付ける。
「これ分かる? カレーだよ」
ほとんど匂いのしない薄茶色のペースト。
「おいしい?」
反応は無い。
じわりと額に汗が浮かぶ。エアコンは効いている筈なのに。
母が倒れ、この生活が始まって十年が過ぎた。
子供の頃ワクワクした夏の匂いは私の記憶から徐々に消えていき、汗と排泄物の匂いに上書きされている。
疲れはするし、悲しくなるが、不思議と嫌だとは思わなかった。
END
「夏の匂い」
7/1/2025, 4:53:20 PM