日記はここで終わっている。
END
「これで最後」
私を名前で呼ぶ人はあまりいない。
大半の人は私を名前では無く肩書きで呼ぶ。
そうしてだんだん自分の名前が遠くなって、肩書き以外のものが消えていって、私の自我が閉ざされていく。
肩書きが無くなったら私はどうなってしまうのだろう。肩書きの無い私を人はなんて呼ぶのだろう。
私の名前は·····何だったろう?
肩書きだけになってしまった私は、顔も髪も体も声ももう自分では思い出せない。
「×××××様」
――誰?
「×××××様」
――それは誰?
「もちろんあなたのことです。×××××様」
――あぁ、そうだ。それは私の名前。
この世界でただ一人、私を名前で呼ぶ人。
「久しぶりですね。※※※※※※」
あなたはきっと、知らないのでしょう。
年下の君の名前を呼んだあの日。
私は私を取り戻したのです。
END
「君の名前を呼んだ日」
どこかで聞いた音だと、微睡みながら男は思った。
重いまぶたを押し上げて時計を見ると、時刻はまだ六時を過ぎたばかりで、閉じたままのカーテン越しにようやく景色が白み始める頃だった。
どこで聞いた音だったか。
ベッドの上で体の向きを変えながら男は考える。
まだ完全に目覚めてはいない体はひどく重くて、ひとつ動くたびに眠気が襲ってくる。半覚醒なのはさっきからずっと、微かな音が聞こえているからだ。
ゆっくり頭を巡らせると、灯り取りの小さな窓がほんの少し空いていた。音はどうやらそこから聞こえているらしい。
耳を澄ます。柔らかな音が途切れることなく続いている。つい最近もどこかで聞いた音だ。
心地よい音だった。
静かでやさしいその音は、男にずっと聞いていたいと思わせて、だが音だけが理由では無いと男に思い知らせていた。
庭だ。
男は思い出す。
一昨日、裏の小さな庭で聞いた音だ。朝ではなく、夕方だった。柔らかな音と時折土を踏む足音。穏やかな時間が流れていた。
同居人が如雨露で花に水をやっている。
楽しげな背中をぼんやり見つめる。
さぁさぁとやさしい音がする――。
男は緩慢な動作でベッドから下りると、カーテンを両手でゆっくり開いていく。
明るい灰色の空。
張り出したベランダがしっとり濡れている。
雨粒は見えない。
さぁさぁと鳴るやさしい音。
背後のドアが空く。
「あ、起きた? 珍しいね、あなたがこんな時間まで寝てるなんて」
「――」
「あんまり気持ちよさそうに寝てたから、起こしちゃ悪いと思って。今日は休みだし。ごはん、出来てるよ」
雨音に重なる声。
静かでやさしいその音は、ずっと聞いていたいと思わせて·····。
口元が緩むのに気付かぬまま、男はリビングへと向かった。
END
「やさしい雨音」
子守唄が存在しない社会があるという。
ネットで見た記事を流し読みしただけだからうろ覚えだけれど、歌や舞踊という文化が人口の減少と共に失われていった可能性がある、というのだ。
歌が無い世界とはどんなものだろう。
私が日々聞いている歌が、そもそも歌という概念自体が存在しない世界というのは、私の今生きている世界とどう違うのだろう。
そんなに大差は無いのかもしれない。
歌があって当たり前の世界に生きているから、無い世界に違和感を覚えるのであって、初めから歌が無い世界に生きていたら、歌という概念自体知らずに生きるだけのことなのだ。
歌が無い世界を勝手に〝さみしい〟と思うこと自体が私のエゴなんだろう。
当たり前にあるものが当たり前でない。
当たり前にあるものはいつか消える可能性もある。
私の中の当たり前は、私が生きる社会でだけの当たり前なのだ。
END
「歌」
いつもいつも、突然だった。
腕を、髪を掴まれる。
襟首を引き寄せられる。
無理矢理立たされる。
そこにいろと押さえつけられ、早くしろとせかされ、うるさいと殴られて罰を受けた。
「冷えてきたから、これ」
てっきりコーヒーだと思っていたら、入っていたのは白く少しどろりとした液体だった。
「甘酒」
「――飲んだことないな」
「そうなんだ? 私は結構好きだな。体が芯から温まる感じがして」
独特の香りが鼻をつく。
一瞬の躊躇のあと口に含むと、少し粒が残る独特の感触に戸惑う。だが、たしかに味は悪くなかった。
甘さと温かさがゆっくりと喉を通り、胸に落ちていく感覚が分かる。
じわりと広がるそれは不思議な安堵を呼び起こした。
「寒暖差が激しいから体がついていかないね」
なんてことのない、ただの会話。
「夏は冷やしても美味しいし、こうやって温めても美味しいから常備しといてもいいかな。今度大きいパック買ってもいい?」
「好きにしろ」
「美味しかった?」
「悪くない」
正直、好きな味だった。
「ん、じゃあ今度買ってくる」
半分独り言のようなものなのだろう。だが端々に相手を·····つまりは私を気遣うニュアンスがあることに、ある意味感動を覚える。
――愛を一身に受けて育つと、こうなるのか。
はかない雪粒を両手で受け止めるような。
落ちそうな花びらをそっと包み込むような。
産まれたばかりの子猫を毛布でそっとくるむような。
そんな柔らかで、あたたかな感情。
私には決して与えられなかったものが、私にはついぞ育たなかったものが、目の前にある。
失いたくないと、心の底から思った。
END
「そっと包み込んで」