ノアの方舟は正しい人であるノアとその家族を乗せていた。洪水が起こり、方舟に乗っていたノアとその家族以外の人は滅んでしまう。
ノアは正しい人だったから、神に選ばれて方舟を作ることを命じられた。
ではなぜ、正しい人しか生き残れなかったはずなのに、今この世界にこんなにも正しくないことが満ちているんだろう?
方舟は未来へ残るべき人と命を乗せていたはずなのに、正しい人以外は全て滅んだはずなのに、なぜ正しくない行いが満ちて、正しくない人が溢れているんだろう?
神様はお見通しだったのだろうか。
正しい人も間違うことを。
完全に正しい人なんていないことを。
それとも、正しくない人もまた未来へ残るべき命と、そう考えたのだろうか。
人はやり直すことが出来るから、誰だって未来への船に乗っていい。
もし神様がそう考えていたのなら、少しは信じてみてもいいのかもしれない。
END
「未来への船」
トレッキングというか、ウォーキングというか、とにかく不意に思い立って、男はその日の朝早くに家を出た。
どちらかと言えばインドア派だった彼が何故森へ行こうなどと思ったのか、それは誰にも分からない。もしかしたら彼自身にも分かっていないのかもしれない。
それを聞いたらある人はこう答えるだろう、「それは森に呼ばれたんだよ」と·····。
鬱蒼とした森は薄暗く、ひんやりしている。
絡み合い、盛り上がった木の根は時折太い幹に手をつかなければ歩けないほど地面を隆起させ、男の呼吸を乱す。
何の装備も持たない素人同然の彼の息は、ものの数分で上がり、足取りを鈍くする。
「はぁ、はぁ·····」
どうして歩くのか。
どこに向かっているのか。
彼は分からない。
広大な森は静寂につつまれ、彼以外に生き物の気配は無い。
「はぁ、はぁ·····」
今何時なのか。
森の奥に何があるのか。
彼は分からない。
静か過ぎる森の異常を、彼は知る由も無い。
鳥の声も、葉擦れの音も、風の音も無い森。
枝が折れる音も、足音も、沢の水音もしない森。
「はぁ、はぁ·····」
彼は分からない。
自分が既に異界へと足を踏み入れていることを。
人は意外と簡単に·····
消える。
END
「静かなる森へ」
何の変哲もない棒を持って空を飛ぶ、とか。
自分の口からカエルをはきだす、とか。
殺される、とか。
上空から急降下する、とか。
見知らぬ女の人に一方的に罵られる、とか。
朝起きて「今の、何やったん?」て思う·····そういうの?
END
「夢を描け」
憧れだけでは届かない。
対抗心だけでも届かない。
清廉な向上心だけでも、勝ちたいという自我だけでも届かない。
あの人の目線はとても高くて、とても遠くて。
私には見えない何かを見つめていて·····、その何かが見えない私は、どうしてもあの人には届かなくて·····心だけがどんどんどんどん擦り切れて·····。
同じものを見ることも出来ない、互いに見つめ合うことも出来ない私は、ただ虚空に手を伸ばすことしか出来なくて、やがてその手を虚しく下ろすことしか出来ないのでした。
END
「届かない·····」
毎日通る公園のベンチで時々見掛ける人だった。
天気の良い日にそこに腰掛けてじっと本を読む姿は、穏やかで、静かで、その場によく馴染んでいて、まるで一つの絵画のようだった。
通り過ぎながら時折目が合えば会釈をする程度で、お互い名前も素性も知らない。優雅な老後を送っている資産家のご婦人なのだろうと勝手に思っている。
今はあくせく働いている私もいつかはあんな時間を送れるようになりたいと、見掛けるたびにそんな事を思っていた。
有給を消化しろと言われて時間を持て余し、ふと思いついたのがあのベンチだった。
正午近く。
コンビニで買ったパンとコーヒーを片手に公園への道に入る。
いつもと数時間違うだけで景色はこんなに変わるのだと気付く。
子供連れのお母さんの姿が多い。あとはスーツ姿でスマホ片手に詰め込むようにおにぎりを食べるサラリーマン。朝は静かな公園が思った以上に賑やかで、少し気圧される。
あのベンチにあの人はいないかもしれない。
そんな事を思いながら近づくと、空気が一変した。
「·····」
降り注ぐ淡く揺れる光。
葉擦れの音だけが微かに響く。
ピンと背を伸ばし、本を読む姿。
朝からずっとここにいるのだろう、絵画のように変わらない姿。
光は求める人を正しく照らす。
ふだんは無神論者で通す私だけれど、木漏れ日の下で本を読む彼女の姿に、そんな事を思った。
END
「木漏れ日」