トレッキングというか、ウォーキングというか、とにかく不意に思い立って、男はその日の朝早くに家を出た。
どちらかと言えばインドア派だった彼が何故森へ行こうなどと思ったのか、それは誰にも分からない。もしかしたら彼自身にも分かっていないのかもしれない。
それを聞いたらある人はこう答えるだろう、「それは森に呼ばれたんだよ」と·····。
鬱蒼とした森は薄暗く、ひんやりしている。
絡み合い、盛り上がった木の根は時折太い幹に手をつかなければ歩けないほど地面を隆起させ、男の呼吸を乱す。
何の装備も持たない素人同然の彼の息は、ものの数分で上がり、足取りを鈍くする。
「はぁ、はぁ·····」
どうして歩くのか。
どこに向かっているのか。
彼は分からない。
広大な森は静寂につつまれ、彼以外に生き物の気配は無い。
「はぁ、はぁ·····」
今何時なのか。
森の奥に何があるのか。
彼は分からない。
静か過ぎる森の異常を、彼は知る由も無い。
鳥の声も、葉擦れの音も、風の音も無い森。
枝が折れる音も、足音も、沢の水音もしない森。
「はぁ、はぁ·····」
彼は分からない。
自分が既に異界へと足を踏み入れていることを。
人は意外と簡単に·····
消える。
END
「静かなる森へ」
5/10/2025, 3:04:55 PM