暗かった街がしらじらと浮かびあがっていく。
川面がきらめき、背の高いビルがシルエットを際立たせ、光が満ちていく。
夜に冷えた街全体が、次第に温まっていく。
鳥のさえずり、車のエンジン、トースターのタイマー。
静かだった街に、朝の音が増えていく。
この家の〝朝の音〟はなんだろう。
窓の外をぼんやり見ながら考える。
「××××××、起きたか」
ノックの音。自分の部屋でもあるのだからノックなどせず開けていいのに。
「起きた」
答えて立ち上がる。
細く開いたドアの隙間から、コーヒーの匂いが漂ってくる。
半分ほど開いたドアから不機嫌そうな顔が覗く。
でもこれが、彼のいつもの顔だ。
「おはよう」
言いながら、さっきのノックの音と声がこの家の〝朝の音〟だと思った。
END
「夜が明けた。」
魔が差すって、あるでしょ?
いつもは人通りがあるのに何故か誰もいない。
いつもはあのアパートのどこかの窓が開いてるのに今日に限って開いてない。
いつもは鍵を掛けてしまってある筈なのに鍵が開いてる。
いつもは静かなのに今日はお祭りで町全体が騒々しい。
そんな、いつもと違う事に気付いた日。
そんな、今なら誰にも見つからないと分かってしまった瞬間。
そんな、ふとした瞬間が正にソレ、なんだよね。
それが分かってしまったら、後は簡単だったよ。
この手をこう、ぐっとあの人のお腹に向けるだけだった。最初の抵抗を乗り越えれば後は自然に押し込まれて、もう限界ってところにまで入れたら後はその手を引っ込めるだけ。
誰もいなかった。
何の音もしなかった。いや、音はしてたかな?
でもうるさすぎて何の音か分からなかった。
私はあの人に背中を向けて歩き出した。
ううん。走ったりしてない。
歩いて普通に帰ったよ。帰ったら着替えて支度して、駅に向かった。
うん、君が来るまで誰も来なかったよ。
だから言ったでしょ? ああいうふとした瞬間を、〝魔が差す〟って言うんだよ。
END
「ふとした瞬間」
どこにいようと、誰といようと、何をしていようと、構わないの。
女はそう言ってニコリと蠱惑的に微笑んだ。
華やかな黄色い花が一面咲き乱れる場所で、女の佇まいは異質だ。いや、花の方が本来そこに咲いている筈の無いものなのか。
やけに華やかで、元気で、力強さを感じさせる花は女の佇まいとも、隣にいる男ともまるで違う。
白いドレスに身を包んだ女は咲き乱れるその花の中で不思議な笑みを絶やさない。慈愛なのか愉悦なのか、感情の判断がつかないその表情は、自分もきっとそうなのだろうと男に思わせた。
どんなに離れていてもあの子は私の望む通りの結末を見せてくれる。私がたっぷりの愛情を注いで育てたあの子なら。私が教えた愛、それ以上の愛の形を、私が理想とした愛、それを覆すような愛の形を、あの子はその人生をかけて見せてくれる。
あの子が誰といるかは、大した事じゃないの。
何をするかが大切なの。
パラソルをくるくると回しながら女は歌うように囁く。
男はそんな女の横顔に深く長い息を吐く。
「あの子、か。かわいそうに。自分で選んでいると思った全ての選択が、君の教育の賜物なんてね」
そうしなきゃあの子は生きられなかったのよ。
女の声が途端に鋭く厳しいものになったのに、男は気付いて息を飲む。
あの子は私の大事な愛し子。
どんなに離れていても、私は見つめているわ。
あの子だけを。
あの子が見せる愛の形を。
黄色い花が揺れる。
大輪の花は女を見上げ、その向こうにある空を見上げている。その先にあるのは真っ暗な宙と、その中心に輝く太陽。
遠く離れた灼熱が、自分のすぐ後ろにいるような気がして、男は思わず肩を竦めた。
END
「どんなに離れていても」
「「こっちに恋」「愛にきて」だって」
「さむっ」
「寒いってか、恥ずかしい」
「恋も愛も忘れたスレた人間にとっちゃ、まったく刺さらないポスターだわ」
「忘れたんじゃないじゃん」
「ん?」
「アンタは恋も愛も忘れたんじゃなくて、最初っから無いんでしょ」
「·····」
「あ。·····ご、ごめん」
「うんにゃ、いいよ別に。当たってるから」
「無神経だった」
「いいって。ただ、こういうのが嬉しいって感覚は全くないな、ってのは確かだから」
「世の中恋愛至上主義だからねー」
「やんなっちゃうよね。恋も愛も感情として素敵だってことは分かるんだけど、他のどんな感情よりも最優先される、みたいな風潮はしんどい」
「·····ねえ」
「ん?」
「なんでアンタは私と一緒にいてくれるん?」
「なんでって、友達じゃん」
「そうだけど、さっきみたいに無神経な事言うじゃん、私」
「それはお互い様でしょ。私がアンタの地雷踏んじゃう時だってあるんだし。·····あ、〝地雷踏む〟って表現もあんまり良くないんだよな」
「私はアンタみたいに色々考えらんないよ」
「違うよ。私はアンタといるから色々考えられるんだよ。アンタとはこういう話がちゃんと出来るから好きなんだよ」
「好き·····」
「アンタといる時間が楽しいってこと。それは恋とか愛とかとは違うけど、私が何より大切にしたいものだよ」
「·····アンタさ」
「なに?」
「あのポスターよりよっぽど恥ずかしいわ」
「·····っ」
「でも、ありがと!」
END
「こっちに恋」「愛にきて」
パラレルワールドがあるとして、その世界でも私は最推しのあの人に出会っているのだろうか。
私の人生を変えた人。
人生は生きるに値すると思わせてくれた人。
挫折しても打ちのめされてもまた前を向けるきっかけ。
観測出来ない並行世界がどんな世界か分からないけれど、最推しのあの人がその世界でも輝いていて、私の人生を変えてくれているといい。
END
「巡り逢い」