彼があの剣を岩から引き抜かなかったら。
0点を取ったあの男の子が机の引き出しを開けなかったら。
心優しいあの子の父親が二人の娘を持つ女性を後妻に迎えなかったら。
あのおじいちゃんが騎士道物語に夢を見なかったら。
小さなあの女の子が白いウサギを追いかけなかったら。
あのお猿さんが驕って仏様に挑んだりしなかったら。
だらだらと続く長い坂をあの人が登っていかなければ。
世界の面白さの何パーセントかを私は確実に知らないままでいたのだろう。
物語の始まりは思いがけないものだったり、些細なことだったり、ドラマチックだったり様々で、読み進める度に私の想像の何倍も広い世界や価値観を教えてくれる。
私はあとどれくらい、新しい物語を見つけることが出来るだろう。そしてその主人公達は、最初に何をしているだろう。
私のようにだらだらとSNSを見ている主人公はいるだろうか。
毎日コツコツ病室の掃除をしている主人公はいるだろうか。
そんなシーンから始まる物語がいつか見つかるかもしれない。
あぁ、それにしても。
時間が惜しい。
END
「物語の始まり」
伝記になるような立派なものでなくていい。
誰かに賞賛されなくてもいい。
自分が人生の最期を迎える時に「楽しかったな」と振り返って笑うことが出来たらいいな、と思う。
楽しいという言葉の意味は多分色々あって、満たされているなと感じたり、時間を忘れて没頭出来たり、周りの人のサポートを感じることが出来たり、苦労や不安を払拭する何かが見つかったり、そういう瞬間の蓄積が楽しい、楽しかった、に繋がるんだと思う。
そしてそれは、自分の熱の度合いが多分に影響するものなんだろうとも思う。
毎日続けているこのアプリも、いつまで続けられるか分からないけどまだまだ「続けたいな」とぼんやり思うこのぼんやり、こそが「静かな情熱」なのかもしれない。
END
「静かな情熱」
一人一台どころか一人で複数のスマホやタブレットを持つ時代。
世界は広くなったのだろうか。それとも狭くなったのだろうか。
誰もが発信者になり、また受信者にもなる世界で、自分と自分以外の存在の隔たりは大きくなったような気がする。
自分と互いにフォローしあっている〝仲間〟以外は、まるで違う世界の人間でもあるかのようだ。
だから、分からない。分かり合えない。
自分とフォロー外の人が、同じ時代に、同じ世界に生きているということに気付けない。
社会問題に対する切実な訴えも、平和を希求する子供の叫びも、犯罪や差別を許さない毅然とした声も、画面の中のフィクションが発する音声のように感じてしまう時がある。
タブレットの薄い画面の中の言葉が、遠い遠い、違う次元に存在する世界からの発信のように映ってしまう。
世界は広くなったのだろうか。それとも狭くなったのだろうか。
物理的な距離は越えられるようになったのに、精神的な距離はどんどん遠ざかっていっている気がする。
そうして誰の姿も見えなくなって、声はどんどん遠くになって、世界は自分とフォローしあっている〝仲間〟以外はみんな同じ、ただの〝フィールド〟、ただの〝モブキャラ〟になってしまう。
現実が遠くなっていく感覚は、人に幸せをもたらすのだろうか?
そんな事を考えながら、私は今日もタブレットに文字を打ち込む。
あぁ、その矛盾。
END
「遠くの声」
猫がうるさい。
夜になるとそこらじゅうでニャーニャー鳴いて、挙句の果てにはドタバタ暴れて喧嘩までおっ始めやがる。
男は酷くイライラした様子でチューハイを飲み干すと、窓を開けて一声怒鳴った。
「うるせえ! 盛ってんじゃねえ!」
途端に音はピタリとやんで、猫の気配もかき消える。
何も無い闇をしばらく睨みつけていた男はやがてふん、と鼻を鳴らすと窓を閉めて部屋に戻った。
「·····」
開いたノートパソコンの画面は真っ白のままだ。
男はぐっと一度腕を伸ばし、意を決したように画面に向かう。キーボードを叩く音が軽快に響いたと思うと、五分もしない内に止まってしまった。
乱暴に髪をかきむしり、たった今書き上げたばかりの数行をデリートする。
そうしてバタンと床に仰向けに倒れると、つまらなさそうに唇を尖らせた。
「なにが恋の季節だバーカ」
――こちとらグロホラー作家で売ってんだ。新しい雑誌の企画だとか言ってたが、ホラー作家に恋愛小説なんか頼むんじゃねえよ。
「引き受けた俺も俺だけど」
出会いも別れも、男にとってもう感情を揺さぶるものではなくなっている。年度変わりに担当が変わる、アパートの隣人が変わる。数年付き合った担当は涙を見せることも無く、安普請のアパートは自分のようなくたびれた中年しか越してこない。
浮かれて鳴いて、激情に身を任せるような感覚はもうすっかり鈍化してしまった。
グロホラー作家、などと名乗っているが実際のところはもうホラー作家としてもほとんど忘れ去られてしまっているのだ。一発屋、などと書評家に言われているのも知っている。
〝違うジャンルを書いてみませんか?〟
メールで来た執筆依頼は聞いたことの無い出版社で、食う為によく考えもせず引き受けた。
締切はまだ先だが全く話が浮かばない。
「やっぱ断ろう」
起き上がり、メールを開く。
こういうのは賞味期限の切れた中年作家より、画面映えのする若手の作家の方が向いている。
執筆辞退の文章を数行打って、男は不意にスマホを取り出した。
――最後くらいちゃんと電話で断ろう。
その考えが既に賞味期限切れなんだろうな、と自嘲気味に笑いながら、それでも変えられないスタンスに男は我ながら面倒くさいと思う。
数回のコールの後、出たのはボソボソとした不明瞭な声の女だった。
『はい。※※出版です。はい、はい、少々お待ち下さい』
単音の保留音が流れる。
――そういえばこんな夜中に電話なんかして、迷惑だったかもしれない。
そう考え始めた、その時。
『〇〇先生!! 初めまして! 担当の××と申します! すいません、今まできちんとしたご挨拶が出来なくて!!』
ハキハキした明るい男の声。
疲れきって丸まった背が思わず伸びるような、みずみずしい若い声。
「あの、今回の執筆の件ですが」
『はい! 先生一度お伺いしてもよろしいでしょうか? やはり僕はきちんとお会いして話を進めるべきだと思ってて·····』
――嵐のようだ。
それが男の、最後の恋の始まりだった。
END
「春恋」
数年、数十年先には一般的になるであろう科学技術。
世界のその国、地域にしかない文化や習慣、宗教。
百年以上前から続く、それらを理解しあおうという一大イベント。
武器を手に戦う国の人達も、ここでは互いに健闘をたたえあったり、更には手に手を取ってダンスに興じることもある。
そんな事が出来るのに。
何千年も前から戦争をやめることは出来ない。
一大イベントで感動はしても日常に戻ればいつもと同じことを繰り返す。
こんな人類にどんな未来が描けるというのだろう。
戦争、とまではいかなくても日常はひたすら私達を追い詰めて、他者を思いやる事など出来なくさせる。
バラ色の未来なんて、本当にあるのだろうか。
END
「未来図」