せつか

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猫がうるさい。
夜になるとそこらじゅうでニャーニャー鳴いて、挙句の果てにはドタバタ暴れて喧嘩までおっ始めやがる。

男は酷くイライラした様子でチューハイを飲み干すと、窓を開けて一声怒鳴った。
「うるせえ! 盛ってんじゃねえ!」
途端に音はピタリとやんで、猫の気配もかき消える。
何も無い闇をしばらく睨みつけていた男はやがてふん、と鼻を鳴らすと窓を閉めて部屋に戻った。

「·····」
開いたノートパソコンの画面は真っ白のままだ。
男はぐっと一度腕を伸ばし、意を決したように画面に向かう。キーボードを叩く音が軽快に響いたと思うと、五分もしない内に止まってしまった。
乱暴に髪をかきむしり、たった今書き上げたばかりの数行をデリートする。
そうしてバタンと床に仰向けに倒れると、つまらなさそうに唇を尖らせた。
「なにが恋の季節だバーカ」
――こちとらグロホラー作家で売ってんだ。新しい雑誌の企画だとか言ってたが、ホラー作家に恋愛小説なんか頼むんじゃねえよ。

「引き受けた俺も俺だけど」

出会いも別れも、男にとってもう感情を揺さぶるものではなくなっている。年度変わりに担当が変わる、アパートの隣人が変わる。数年付き合った担当は涙を見せることも無く、安普請のアパートは自分のようなくたびれた中年しか越してこない。
浮かれて鳴いて、激情に身を任せるような感覚はもうすっかり鈍化してしまった。
グロホラー作家、などと名乗っているが実際のところはもうホラー作家としてもほとんど忘れ去られてしまっているのだ。一発屋、などと書評家に言われているのも知っている。

〝違うジャンルを書いてみませんか?〟

メールで来た執筆依頼は聞いたことの無い出版社で、食う為によく考えもせず引き受けた。
締切はまだ先だが全く話が浮かばない。
「やっぱ断ろう」
起き上がり、メールを開く。
こういうのは賞味期限の切れた中年作家より、画面映えのする若手の作家の方が向いている。
執筆辞退の文章を数行打って、男は不意にスマホを取り出した。
――最後くらいちゃんと電話で断ろう。
その考えが既に賞味期限切れなんだろうな、と自嘲気味に笑いながら、それでも変えられないスタンスに男は我ながら面倒くさいと思う。

数回のコールの後、出たのはボソボソとした不明瞭な声の女だった。
『はい。※※出版です。はい、はい、少々お待ち下さい』

単音の保留音が流れる。
――そういえばこんな夜中に電話なんかして、迷惑だったかもしれない。
そう考え始めた、その時。
『〇〇先生!! 初めまして! 担当の××と申します! すいません、今まできちんとしたご挨拶が出来なくて!!』
ハキハキした明るい男の声。
疲れきって丸まった背が思わず伸びるような、みずみずしい若い声。
「あの、今回の執筆の件ですが」
『はい! 先生一度お伺いしてもよろしいでしょうか? やはり僕はきちんとお会いして話を進めるべきだと思ってて·····』

――嵐のようだ。

それが男の、最後の恋の始まりだった。


END



「春恋」

4/15/2025, 4:35:58 PM