一人一台どころか一人で複数のスマホやタブレットを持つ時代。
世界は広くなったのだろうか。それとも狭くなったのだろうか。
誰もが発信者になり、また受信者にもなる世界で、自分と自分以外の存在の隔たりは大きくなったような気がする。
自分と互いにフォローしあっている〝仲間〟以外は、まるで違う世界の人間でもあるかのようだ。
だから、分からない。分かり合えない。
自分とフォロー外の人が、同じ時代に、同じ世界に生きているということに気付けない。
社会問題に対する切実な訴えも、平和を希求する子供の叫びも、犯罪や差別を許さない毅然とした声も、画面の中のフィクションが発する音声のように感じてしまう時がある。
タブレットの薄い画面の中の言葉が、遠い遠い、違う次元に存在する世界からの発信のように映ってしまう。
世界は広くなったのだろうか。それとも狭くなったのだろうか。
物理的な距離は越えられるようになったのに、精神的な距離はどんどん遠ざかっていっている気がする。
そうして誰の姿も見えなくなって、声はどんどん遠くになって、世界は自分とフォローしあっている〝仲間〟以外はみんな同じ、ただの〝フィールド〟、ただの〝モブキャラ〟になってしまう。
現実が遠くなっていく感覚は、人に幸せをもたらすのだろうか?
そんな事を考えながら、私は今日もタブレットに文字を打ち込む。
あぁ、その矛盾。
END
「遠くの声」
猫がうるさい。
夜になるとそこらじゅうでニャーニャー鳴いて、挙句の果てにはドタバタ暴れて喧嘩までおっ始めやがる。
男は酷くイライラした様子でチューハイを飲み干すと、窓を開けて一声怒鳴った。
「うるせえ! 盛ってんじゃねえ!」
途端に音はピタリとやんで、猫の気配もかき消える。
何も無い闇をしばらく睨みつけていた男はやがてふん、と鼻を鳴らすと窓を閉めて部屋に戻った。
「·····」
開いたノートパソコンの画面は真っ白のままだ。
男はぐっと一度腕を伸ばし、意を決したように画面に向かう。キーボードを叩く音が軽快に響いたと思うと、五分もしない内に止まってしまった。
乱暴に髪をかきむしり、たった今書き上げたばかりの数行をデリートする。
そうしてバタンと床に仰向けに倒れると、つまらなさそうに唇を尖らせた。
「なにが恋の季節だバーカ」
――こちとらグロホラー作家で売ってんだ。新しい雑誌の企画だとか言ってたが、ホラー作家に恋愛小説なんか頼むんじゃねえよ。
「引き受けた俺も俺だけど」
出会いも別れも、男にとってもう感情を揺さぶるものではなくなっている。年度変わりに担当が変わる、アパートの隣人が変わる。数年付き合った担当は涙を見せることも無く、安普請のアパートは自分のようなくたびれた中年しか越してこない。
浮かれて鳴いて、激情に身を任せるような感覚はもうすっかり鈍化してしまった。
グロホラー作家、などと名乗っているが実際のところはもうホラー作家としてもほとんど忘れ去られてしまっているのだ。一発屋、などと書評家に言われているのも知っている。
〝違うジャンルを書いてみませんか?〟
メールで来た執筆依頼は聞いたことの無い出版社で、食う為によく考えもせず引き受けた。
締切はまだ先だが全く話が浮かばない。
「やっぱ断ろう」
起き上がり、メールを開く。
こういうのは賞味期限の切れた中年作家より、画面映えのする若手の作家の方が向いている。
執筆辞退の文章を数行打って、男は不意にスマホを取り出した。
――最後くらいちゃんと電話で断ろう。
その考えが既に賞味期限切れなんだろうな、と自嘲気味に笑いながら、それでも変えられないスタンスに男は我ながら面倒くさいと思う。
数回のコールの後、出たのはボソボソとした不明瞭な声の女だった。
『はい。※※出版です。はい、はい、少々お待ち下さい』
単音の保留音が流れる。
――そういえばこんな夜中に電話なんかして、迷惑だったかもしれない。
そう考え始めた、その時。
『〇〇先生!! 初めまして! 担当の××と申します! すいません、今まできちんとしたご挨拶が出来なくて!!』
ハキハキした明るい男の声。
疲れきって丸まった背が思わず伸びるような、みずみずしい若い声。
「あの、今回の執筆の件ですが」
『はい! 先生一度お伺いしてもよろしいでしょうか? やはり僕はきちんとお会いして話を進めるべきだと思ってて·····』
――嵐のようだ。
それが男の、最後の恋の始まりだった。
END
「春恋」
数年、数十年先には一般的になるであろう科学技術。
世界のその国、地域にしかない文化や習慣、宗教。
百年以上前から続く、それらを理解しあおうという一大イベント。
武器を手に戦う国の人達も、ここでは互いに健闘をたたえあったり、更には手に手を取ってダンスに興じることもある。
そんな事が出来るのに。
何千年も前から戦争をやめることは出来ない。
一大イベントで感動はしても日常に戻ればいつもと同じことを繰り返す。
こんな人類にどんな未来が描けるというのだろう。
戦争、とまではいかなくても日常はひたすら私達を追い詰めて、他者を思いやる事など出来なくさせる。
バラ色の未来なんて、本当にあるのだろうか。
END
「未来図」
夜だというのに、ベランダから見える景色がほのかに明るい。
この街のあちこちに咲く桜のせいだと気付くのに、少し時間がかかった。
大通りに植えられた桜並木は、盛りの頃にはライトアップされている。そこに繋がる商店街の軒先もランタンで飾られて、閑静な街はその時期だけ熱に浮かされたようになる。
今夜は少し風が強い。
満開の桜もだいぶ散ってしまうだろう。風に乗って聞こえてくるのは、終わる季節を惜しむ声だろうか。それとも次の季節を望む歓喜だろうか。
ブランデーを数滴落としたコーヒーを飲みながら、男はそんな事を考える。
「夜はやっぱりまだ寒いね」
同居人がマグカップを片手に並ぶ。淹れたてのコーヒーからは温かそうな湯気が立っていた。
「自分で淹れたのか?」
「うん。こないだのあなたのアドバイスを思い出してやってみた」
薫りは確かに男が淹れた時のものに近くなっている。自分がいるのに、とも思うがやってみたいと言うのを無理に止めるのも気が引けて、彼の好きにさせていた。男の方はと言えば、彼の作るチョコレートを美味いと思うが、真似てみたいとは露ほども思わない。
しばらく無言で二人、夜の街を眺める。
目の前にひらりと舞うなにかに気付いたのは、コーヒーを半分ほど飲み終えた頃だった。
ひらり、はらり。
降り始めた雪の粒のような小さな小さなそれは、彼の肩を掠め、男が持つカップの中に吸い込まれるようにして落ちていく。琥珀色の液体に染まってしまったそのひとひらを二人は見つめ、やがて互いの瞳にじっと見入る。
「桜の入水自殺だね」
「物騒な表現だな」
「もう終わる季節なんだよ」
「確かにな」
淡く可憐なひとひらは、もう見る影も無い。
「飲んじゃえば?」
彼の声に誘われるまま、沈んだ一枚の花びらごとコーヒーを飲み干す。
見上げれば、空には魔女の微笑みのような三日月があった。
END
「ひとひら」
写真集を集めるのが好きだと言った彼は、今日も本屋に行く。
何時間も入り浸って、吟味に吟味を重ねて買った新しい写真集を、家に帰ってからもずっと眺めている。
棚に並ぶ写真集に、人をメインにしたものは無い。
ビルの立ち並ぶ大都市、一面の花畑、大海原にダイブする鯨、コンベアに乗せられている大量の金型·····。
世界中の、あらゆる場所の景色を集めた大量の本に囲まれる彼は、だが旅行は好きでは無いという。
「見に行けばいいじゃん」
教会のステンドグラスが載ったページをゆっくり捲りながらそう言うと、彼は行かないよとにべもなく答えた。
ノイズがキツいのだと言う。
音、声、匂い。
彼にはそれらがノイズとなって襲ってくるらしい。
場違いな音が一つ入ってくるだけで、不安感と不快感に押し潰されそうになるそうだ。
分からないでもない。
花の風景を楽しんでいて、不意にジャンクフードの匂いがしたらそちらに気を取られてしまうのは僕にも経験がある。
彼はだから、旅には行かないと言う。
全身のセンサーがきっと僕より鋭敏なのだろう。彼がそれでいいと言うなら、僕にはこれ以上言うことは無い。
この部屋から一歩も出ない彼はそれでもきっと、誰より世界の風景を知っている。
END
「風景」