夜だというのに、ベランダから見える景色がほのかに明るい。
この街のあちこちに咲く桜のせいだと気付くのに、少し時間がかかった。
大通りに植えられた桜並木は、盛りの頃にはライトアップされている。そこに繋がる商店街の軒先もランタンで飾られて、閑静な街はその時期だけ熱に浮かされたようになる。
今夜は少し風が強い。
満開の桜もだいぶ散ってしまうだろう。風に乗って聞こえてくるのは、終わる季節を惜しむ声だろうか。それとも次の季節を望む歓喜だろうか。
ブランデーを数滴落としたコーヒーを飲みながら、男はそんな事を考える。
「夜はやっぱりまだ寒いね」
同居人がマグカップを片手に並ぶ。淹れたてのコーヒーからは温かそうな湯気が立っていた。
「自分で淹れたのか?」
「うん。こないだのあなたのアドバイスを思い出してやってみた」
薫りは確かに男が淹れた時のものに近くなっている。自分がいるのに、とも思うがやってみたいと言うのを無理に止めるのも気が引けて、彼の好きにさせていた。男の方はと言えば、彼の作るチョコレートを美味いと思うが、真似てみたいとは露ほども思わない。
しばらく無言で二人、夜の街を眺める。
目の前にひらりと舞うなにかに気付いたのは、コーヒーを半分ほど飲み終えた頃だった。
ひらり、はらり。
降り始めた雪の粒のような小さな小さなそれは、彼の肩を掠め、男が持つカップの中に吸い込まれるようにして落ちていく。琥珀色の液体に染まってしまったそのひとひらを二人は見つめ、やがて互いの瞳にじっと見入る。
「桜の入水自殺だね」
「物騒な表現だな」
「もう終わる季節なんだよ」
「確かにな」
淡く可憐なひとひらは、もう見る影も無い。
「飲んじゃえば?」
彼の声に誘われるまま、沈んだ一枚の花びらごとコーヒーを飲み干す。
見上げれば、空には魔女の微笑みのような三日月があった。
END
「ひとひら」
4/13/2025, 3:54:06 PM