彼が死んだ。
画家である彼の死は画商でありスポンサーであり友人である私にとって、自分の中の世界が一つ滅んだに等しいことだった。
天涯孤独だった彼のアトリエは私が片付けることになった。形見になりそうなものを探しながら、数ヶ月かけて遺品を少しずつ整理していく。
画材、イーゼル、無地のキャンバス。それ等は仲間の画商に譲り、油絵の具が載ったままのパレットを譲り受けることにした。
赤と白と青が多く載ったパレットは、彼の描く作品世界そのものだった。
彼は何を描いてもこの三色で表現していた。
高層ビルも、木々が生い茂る森も、実在、非実在を問わない数々の生き物も、彼はこの三色で作られる色のみで表現していた。
幻想的ともいえる彼の作品は一部に熱狂的な支持を得て、彼が食べていけるだけの収入を得ることに繋がった。私は彼の作品が評価される事、そして彼という才能を最初に見つけたのが私だという事が誇らしかった。
彼のアトリエには描きかけの作品が二つあった。
キャンバスに被せられた白い布を取り去った時の衝撃を、なんと言い表せばいいのだろう。
一枚は彼の作品らしく赤、白、青の三色で構成された私の肖像画。
そしてもう一枚は·····黒一色で描かれた彼自身の肖像画だった。
「·····」
彼の肖像画は目の周りだけ滅茶苦茶に塗り潰されている。薄く開いた唇は不安を訴えているかのようで、真っ黒な穴が彼の虚ろを表していた。
〝君と見た景色が見えない〟
自画像の隅に見つけた小さな走り書き。
そこで私は真実を見る。
彼の作品は幻想などでは決してなく、すべてがその色で見えていたのだ。
「――」
私が美しいと感じた世界は彼にとって美しかったのだろうか?
分からない。
長くそばにいながら私は、彼のことを何一つ理解していなかった。
END
「君と見た景色」
気温はだいぶ高くなってきてはいたが、北風がまだ冷たい朝だった。
付き合い初めて三回目のデート。
二人で観ようと決めた映画の、上映開始一時間前に駅で待ち合わせた。
冬が終わり、春が訪れるその狭間。服装に困ったのだろう、二人とも肩を竦めて歩いている。
映画を観たら少し遅いランチ。
その後はモールで買い物をして·····と、他愛ない会話をしながら映画館へ向かう。
その道すがら。
「手、繋いでもいいですか?」
立ち止まり、そう尋ねたのは今日で二回目。
「·····えっと」
前回同様口ごもる相手に、今日は少し強く出る。
「嫌ですか? もしそうなら僕はもう二度とそれを望みませんから·····」
「違います!」
思わぬ激しさに、少したじろぐ。
「じゃあ、どうして·····?」
自分で自分の手を隠すようにする相手の目は、俯いてるせいでどんな表情をしているのか判然としない。
「·····荒れてて、爪も綺麗じゃないから」
ぽつりと零した小さな言葉。
ぎゅっと固く握った相手の指の、その先。
指輪もネイルも無く、あかぎれとさかむけだらけの荒れた指。
「やっぱり僕は、あなたと手を繋ぎたいです」
固く握った相手の手に、そっと手を重ねる。
ビクリと一度跳ねた指先は、やはり少しかさついて冷たかった。
体温を分け与えるように、掌で包み込む。
「あなたのこの手は、生きてきた証でしょう?」
人のために、自分のために動き続けた手。綺麗かどうかなど、気にならない。
そう言うと、相手は一瞬泣き出しそうに顔を歪めて·····そして、笑った。
END
「手を繋いで」
「この国は平和だと思ってた」
「普段は静かで安全な街なんだけど·····」
どこの世界の話をしているんだろう?
この世界のどこにも平和で安全な場所なんてないのに。
平和で安全なのはほんの一瞬、ほんのわずかな時間で『平和とは戦争と戦争の間の準備期間である』という言葉もあるくらいだ。
戦争などという重大な事態でなくとも、地震、台風などの自然災害、交通事故、強盗、通り魔などの犯罪は世界中どこにでも転がっている。
そうでなくとも、食べるものが無くて死んでいく人、精神的、肉体的暴力で心をすり減らして死んでいく人、犯罪に巻き込まれ財産全てを無くして死んでいく人、原因不明の病で死んでいく人が、どれだけいると思っているのだろう。
安全な街、平和な国。
それは束の間の幻のようなものだ。
「どこ?」
END
パステルカラーのカーテンに、布団カバー。
ロッキングチェアには両手で抱えるほどの大きなくまのぬいぐるみ。テーブルに置かれたガラスの器には、カラフルなキャンディが詰まっている。
「好きだよ。好きだ。大好きだ」
彼はそう言って、ベッドの端に腰掛けた彼女を強く抱き締める。
可愛らしく飾られた彼女は、彼に優しく微笑み返す。
それは一見、ひどく美しい光景に見える。
けれど彼の眼差しは恋人に向けるソレではなく、お気に入りのおもちゃに向けるもので。
物言わぬ彼女はまるで人形のように、彼に笑みを返すだけだった。
「好きだよ。好きだ。大好きなんだ」
それしか言葉を知らないように、彼はそれだけを繰り返し、彼女を飾り、食べ物を与え、愛を囁く。
――夢にまで見た彼女が目の前に。
彼にとってこの部屋は、紛うことなき理想郷だったのだろう。
もし、一言。
「何が欲しい?」
と彼が彼女に聞いたなら。
彼の理想郷はあっけなく反転し夢は終わりを告げるのだろう。
なぜなら彼女は·····
END
「大好き」
過去に戻りたい。
あの言葉を取り消したい。選択をやり直したい。
でもそれは、叶わぬ夢で。
どうしようもない事が後悔として頭の片隅や胸の奥に残っている。
でもそれが、そういう事があったという事実が、次の選択を間違えない為の支えになるのかもしれない。
そして叶わぬ夢がある、という事がそのものが、人であるという事なのかもしれない。
END
「叶わぬ夢」