夢にまで見た理想郷の筈だった。
過つ事の無い為政者。差別の無い社会。
善行しか出来ない人々。
誰も傷付かない。誰も傷付けられない。
こんな世界があったらと、誰もが一度は夢想した世界の筈だった。
男が笑う。
世界の全てを壊した男が。
夢にまで見た理想郷を、それを夢見た私をあざ笑い、全てを焼き尽くした男が。
男が振るう刃を受けて、私は天を仰いで倒れ込む。
噴き出す血が雨のように男にも降り注ぐ。
「――」
男は·····泣いていた。いや、私の血を浴びて泣いているように見えただけかもしれない。
その顔は私に·····いつか見た女の涙を思い出させる。
――あぁ、そうか。
理想郷とは現実には存在しないから理想郷なのだ。
誰も傷付かない世界などある筈が無く、あるとしたらそれは〝傷付いた誰かを見ないだけの世界〟なのだ。
男はそれに気付いたからこそ、この世界を否定したのかもしれない。
命を終える私には、もうどうでもいい事だった。
END
「理想郷」
煙草の匂い。駐車場の隅に捨てられたヨレヨレの成人雑誌。理科室のホルマリン漬けにされた5本足のカエル。ノストラダムスの大予言に矢追純一UFOスペシャル。電柱や壁に貼られたビックリマンシールにわたせせいぞう。わら半紙のカサカサした手触りに、スライムのひやりとした感触。破裂するかんしゃく玉。実は一番盛り上がるへび花火。公衆トイレの匂い。
私の子供時代はそんな感じだった。
綺麗なだけでもポップなだけでもない。汚かったり騒々しかったり、ばかばかしかったり、今の価値観から見ればおかしな事もいっぱいあった。
今でも街のあちこちに微かに残るそれらの名残り。
それを見つけると心が微かに揺れ動く。
END
「懐かしく思うこと」
一つと言わず二つでも三つでも、いくらだって道は分岐する。ただその分岐点に気付くか気付かないか、そしてその分岐点でポイント切り替えをする者がいるかいないか、新たな物語が生まれる要素はそれだけだ。
ポイント切り替えをする者は自分かもしれないし、他の何者かかもしれない。例えば彼の場合、ポイント切り替えをする者は彼自身じゃなかった。
彼に刻まれた呪いが·····あぁ、呪いだとは思ってないのか。彼も、彼女等も。呪いなのか祝福なのか、それはどちらでもいいけれど、彼がある世界で誰かと出会った瞬間に、その〝装置〟は起動する。
その世界で出会った誰かを生涯をかけて愛するんだ。
そうして彼の〝もう一つの物語〟が分岐して、始まるんだよ。
信じられないかい?
これは私しか知らない事だからね。彼自身も知らない事なんだ。〝彼女〟の本性を知っている私だから知り得た事なんだよ。Aという世界では全てを敵に回して彼はある女を愛した。Bという世界では幼い子供の姿をしたある男と再会し、愛し続けた。そしてこの、Cという世界。彼は歳の離れた男と一つ屋根の下で生きる事を選んだ。
勿論、これは彼自身が選んだ道だ。
でもね、ポイント切り替えのきっかけは確かにあったしそういう装置が彼の中にあるのは事実なんだよ。
だって·····どれも彼女達が好きそうな物語だもの。
男はそう言って、少し寂しそうに笑った。
END
「もう一つの物語」
暗闇の中に何かが蹲っている。
膝を抱え、周囲をきつく睨みつけ、身を固くして蹲っている、小さな子供。――あれは私だ。
暗がりの中で何かに怯え、何を恐れ、何かに怒りを抱えている、幼い私。
伸ばされた手を、掛けられる言葉を警戒し、その奥に隠された意図を探ろうとする疑心暗鬼に取り憑かれた私。子供の狭い世界には二つの存在しかいない。即ち、敵か味方か。
人を信用出来ない。血の繋がりがあろうと関係ない。私の場合はむしろ血縁者が最大の敵だった。
だから、戸惑う。
差し伸べられた腕の意図が分からない。
暗がりの中、ぼうと浮かぶ口元の、笑みが。
幼い私はその腕を振り払い、笑みを浮かべる口元を睨みつけるが、相手は笑みを湛えたまま、尚も腕を伸ばしてくる。
「何がしたいんだ」
ようやく口を開いた私に、相手は笑顔のままこう言った。
「君を知りたいんだ」
「――」
幼い私が子守唄代わりに聞かされたのは、欲と、怨嗟と、呪いだった。
「君を知りたい」
吹き込まれた毒と闇を溶かしたのは、たった一言、ほんの短い言葉だった。
差し伸べられた手を取って、幼い私が立ち上がる。
歩き出し、光に照らされた相手の顔は私がよく知る男のもので。
「おはよう」
そこで目が覚めた。
END
「暗がりの中で」
コーヒーも紅茶も、なんならワインも人並みに嗜むけれど、どれがなんという味かなんて殆ど分からない。
ブレンド、アメリカン、モカ、グアテマラ。
ダージリン、アッサム、オレンジペコ。
シャルドネ、リースリング、ソーヴィニヨン。
名前も品種もそれこそ無数にあるけれど、私にとってはみんなコーヒーで、紅茶で、ワイン。
それ以上でも以下でもなくて、みんなそれぞれ美味しい。
あ、でもコーヒーと紅茶とワインの味と香りがみんな違うことくらいはさすがに分かります!
それじゃ、駄目ですか?
END
「紅茶の香り」