「お疲れ様です」と言った私にあの人は「また明日」と言って笑った。私は「また明日」も会うつもりなんてなかったから、それには答えず足早に駅へと向かった。
飛び乗った地下鉄のドアに凭れる。
くたびれた顔が映っている。
疲れ果てた顔。つけてるリップの色、本当は好きじゃない。ピアスも本当は開けたくなかった。
「·····」
好きだった。
あの人の好きな私になりたかった。
優しい笑顔に、よく響く声に、慰めてくれた手に焦がれた。
でも、あの人にとって私はただの同僚で、都合のいい〝オトモダチ〟で、それ以外の何ものにもなれなかった。あの人には、既にパートナーがいたのだ。知らないとでも思っていたのか。それとも私の想いに気付かぬフリをしていたのか。もう、どっちでもいい。
「好きでした」
別れ際にそう言ってやれば、少しは気が晴れたかもしれない。
「バーカ」
ガラスに映る疲れた顔にそう言って、私はずるずると座り込んだ。
END
「別れ際に」
名前のとおりさっと降って、すぐに止んでくれればいい。
通り抜けてどこかに行ってしまうから通り雨、なのに。最近は一ところに長くい続ける雨が、人間を苦しめている。
雨そのものに悪意は無いはずなのに、いつからこんなに激しくて、攻撃的な降り方をするようになったのだろう。
しとしと、とか、サー、とか、そんな擬音が似合う雨が懐かしい。
END
「通り雨」
壁一面に本が並ぶ小さなカフェで、私は彼と出会いました。街路樹がすっかり葉を落とし、道を歩くたびにサク、サク、と音がする季節でした。
初めて入ったそのカフェで、コーヒーを片手に本を読むその姿に、私は目を奪われたのです。
彼の姿が見える席についた私は、コーヒーを注文すると棚から大きな画集を取り出してページを捲りました。ええ、それはただのポーズです。私は本を読むふりをして、彼の姿を盗み見ていたのでした。
スラリとした長身、ページをめくる長い指、黒縁眼鏡にかかる、珍しい色をした髪·····そのどれもが私を酷く惹き付けて、心をざわつかせたのです。
一時間ほどでしょうか、そうして彼を見つめていた私はあることに気付いて目を見開きました。
「――」
ふわふわした茶色の尻尾。それが彼の背後で揺れていたのです。
見間違いかと思いました。けれどそれは確かにあって、本を読む彼の表情に合わせてピンと立ったり、左右に揺れたり、くにゃりと垂れたりしていたのです。
私以外の他の客は誰も彼の尻尾に気付いていないようでした。好奇心に駆られて、でしょうか。いえ、きっとその前から、私は彼に惹かれていたのだと思います。
私は自分の席から立ち上がるとゆっくり彼に近付きました。
「·····」
彼は夢中で本を読んでいます。近付いてみても、やはり彼の背後にはしっかり尻尾がついていました。
私にようやく気付いたのか、彼がゆっくり顔を上げます。私は少し屈んでソファに座る彼の耳に唇を寄せて、そっと囁きました。
「尻尾が見えてますよ」
黒縁眼鏡の奥にある、珍しい色をした瞳が大きな見開かれました。
「――っ、」
整った美貌がみるみる真っ赤になります。
こうして、狐の彼と私の奇妙な関係が始まったのでした。
END
「秋🍁」
目の前には古い瓦屋根が二軒。
その向こうには新築の鉄筋コンクリート。
斜め前は空き家で、壁には蔦が絡まり草が伸び放題。
そしてその家々の隙間を縫うように電線が走っている。それが、窓から見える景色の全て。
変わり映えの無い景色。
でも時々猫が屋根伝いに歩くのを見るのは好きだった。そして、夜。
何の変哲もない景色は一変する。
星空の下、瓦屋根もコンクリートの屋根も、伸び放題の草も真っ黒なシルエットになって繋がる。古びた空き家のシミも見えなくなって、町全体がやけに綺麗に見える。
そんな静かな夜。音も無くやって来る一匹の野良猫の、イエローゴールドの目だけが輝く。
夜は町を綺麗にしてくれる。
そんな気がする。
END
「窓から見える景色」
形の無いものは目に見えない。
目に見えないからあるかどうか分からない。
大切にしなきゃいけないのに、それは些細なことで崩壊し、流れ出し、消えてしまう。
優しさや、愛情が、怒りや嫉妬や僻みで押し潰されてしまう。
だから私は本を読む。
本を集めて、棚に並べて、目に見える形でいっぱいいっぱい本を積む。
形の無いものを育む為に。
形の無いものが確かにあるのだと忘れない為に。
私の中に育ったもの、私の感情、私の興味、私というもの。その断片が本だと思う。
物に溢れた私の部屋は、私の中の形の無いものを守る為の部屋でもあるのだ。
END
「形の無いもの」