おじいちゃんの名前から一字を貰ったという。
会ったことの無いおじいちゃん。
私が生まれた時にはもう亡くなっていたおじいちゃん。
戦争に行ったという話だけしか知らないおじいちゃん。
どんな人だったのか、その字にどんな意味が込められているのか、父も母もあまり詳しくは教えてくれなかった。
自分の名前は嫌いじゃない。けれど顔も知らない、どんな人か分からないおじいちゃんの面影を重ねられても正直困ってしまう。おじいちゃんのように生きろという意味なのか、その字に込められた意味を探して生きろという意味なのか。
きっと死ぬまでそれを考え続けるのだろう。
END
「私の名前」
その視線の先に誰がいるのか、そしてその視線にどんな意味があるのか、誰もが気付いていたと思います。
いえ、そういった心の機微が分からない者もいたかも知れません。けれどそれはまだ年若い、自分の栄達と野心に燃えている者特有の視野狭窄によるものでしょう。いずれ彼等も気付いたのではないかと思います。
その視線の意味に気付いた者達はみな一様に苦悩しました。男も、女も。
彼に憧れ、彼に恋をし、彼に心を奪われた者すべてが、その日自分の一部が欠けてしまったことを思い知らされたのです。彼を憎むことが出来たらどんなに良かったか。憎むことも、恨むことも、忘れることも出来ないからこそ、彼自身だけでなく全てのものが苦しんだのでした。
結末は、ご存知の通りです。
残ったのは、焦土と化した王国でした。
END
「視線の先には」
みんなと同じじゃないと烈火のごとく怒って排斥するくせに、みんなが特別扱いをされることを願っている。
平均的で、一般的で、フラットな世界の中で、自分だけが選ばれるのを心の中で望んでいる。
みんなが不平不満や日々の愚痴をこぼす中、いつか誰かが自分を見つけて、「あなたは特別だ」「あなたはすごい」と賞賛してくれるのを待っている。
SNSやネットのツールがこれだけ流行っているのもきっとこれが理由だろう。「私だけに向けられる」賞賛が目に見える形で表れる。承認欲求を満たすのに、こんなに便利なツールは無い。
かくいう私も。
毎日同じような業務の繰り返し、ストレスだらけの人間関係。それらから逃げるようにネットの世界に飛び込んで、自分の好きな世界を、好きなものを表現する。そこで貰う「いいね」は私だけのものだ。
顔も見えない世界で送られる小さなハートのマーク。
顔も知らない誰かがくれた、小さな、けれど尊い気持ち。この通知が来るだけで、私は多分明日も生きていけるのだろう。
END
「私だけ」
はっきりと記憶があるものの方が少ないんじゃないだろうか。
社会見学に行く前日に朝礼台から落ちて怪我したとか、回してる最中の洗濯機に指を突っ込んだら洗濯物が指に絡まって泣き喚いたとか、暑くて氷を噛んでたら喉につまったとか、そういう記憶はある。
それはきっと、痛みや苦しさと連動しているからだろう。
痛みや苦しみを伴わない物事の記憶は余り残っていない。それは単に忘れているだけなのか、それともそういう体験自体が無いのか·····考えないことにしている。
END
「遠い日の記憶」
〝アレ〟が白や金色の光を放ちながら空にある時、私の周りの小さな世界は温かくなり、視界が一気に広がる。〝アレ〟の名前を私は知らないけれど、あの光があることでこの小さな世界の住人は生きる力を得ている気がする。
〝アレ〟はいつも空にあるわけじゃない。空に昇り、一定の時間になると姿を消して、また顔を出す。
全く姿を見せない日もある。そんな時はこの小さな世界も少し寒くて、視界も薄暗いまま。それがこの世界の営みなのだと知ったのは、ずっと後のことだった。
〝アレ〟の名前を私は知らない。
けれど最近、〝アレ〟と同じ温かさを持つ存在がこの小さな世界を訪ねてくるようになった。
それは〝アレ〟と同じくらい輝いていて、〝アレ〟と同じくらい温かい。
私の視線に気付いたそれは、青い綺麗な瞳を輝かせてにこりと笑った。
「こんにちは」
「×××××」
柔らかな声だった。空にある〝アレ〟が言葉を話したらきっとこんな声だろう。青い瞳と〝アレ〟に似た綺麗な髪。私は一目で心を奪われた。
それは何度か〝アレ〟が空に昇り、姿を消すを繰り返す間この小さな世界にいて私と一緒に泳いだりしていたが、しばらくすると「また来年、来ますね」と言って去っていった。
空に向けて顔を上げる。
青い空の斜め上に、〝アレ〟が金色の光を放って浮かんでいる。
「また来年、来ますね」
柔らかな声が頭の中に響いた。
「×××××」
その時胸に浮かんだ感情の名前を、私はまだ知らずにいる。
END
「空を見上げて心に浮かんだこと」