せつか

Open App
5/2/2024, 3:35:01 PM

丸まった背中を宥めるようにそっと撫でた。
撫でられた相手は無言のまま、石のようにじっとしている。自分と同じ大きな男がそうしているのはとても滑稽で、だからこそ哀しく見えた。

「彼等にそれを求めるのは酷だと分かっているだろうに」
そうせずにはいられないのだろう。
「·····分かってる」
答える声は酷く陰鬱で。
「彼等は罰などくれやしない。お前に出来るのは彼等の優しさを受け入れ、彼等の望む在り方を示して共に歩くだけだよ。それこそが与えられた〝罰〟だ」
「·····っふ」
男の背中が小さく揺れた。笑っている。
私がそれを伝えることの愚かしさを、この男も分かっているのだろう。

優しさが辛いなら逃げればいい。
誰もが思うそれが、この男には出来ない。
いっそ指を突き付けて、お前のせいだと断罪してくれればいい――。そう願って、それが叶わぬと知って、追い詰められた男は狂気に堕ちた。
狂い果てた末の結末を、その姿を知ってしまった男はもう二度と、逃げることも狂うことも出来ない。
〝私〟はそれを、よく分かっている·····。
「お前にはそれが何より苦しいのだろうけれど」
「苦しいのは〝お前〟も同じだろう」
男が呟く。

――そうだ。
私がこうして言葉を交わし、苦悩を吐き出せるのはこの男だけ。そうしてしまったのは他でもない〝私自身〟だ。

私とお前。
正気と狂気に分かたれた私達が願うのは、決して口にしてはいけない望み。

――どうか、優しくしないで。

この正しく美しい地獄で、いつ終わるとも知れぬ優しい罰を、私達は受け続けている。

END


「優しくしないで」

5/1/2024, 3:59:11 PM

雨は嫌いです。

なぜ? と問うと押し潰されるような気がするからです。と彼は答えた。
太陽が灰色の雲に遮られ、雨音が人の声をかき消してしまう。視界も不明瞭になり、まとわりつく湿気が髪をうねらせ、体力を奪う。
何もかもが嫌いです。そう言って、わずかに唇を尖らせた彼の横顔を小さく笑って見つめる。

普段は滅多に不平不満など言わない彼が、こと雨に関してはまるで子供のように理不尽な文句を言い募る。彼の金髪が確かにいつもよりうねっているのを見つけて、私は思わず噴き出しそうになるのを堪えた。
歩きながら、彼は尚も自分がいかに雨で迷惑を被っているかをまくし立てている。
どうやらこのところの仕事のトラブルなどを全て雨のせいにして、怒りを発散したいらしい。
大股で歩く彼の足元は、跳ねた水で靴もスラックスも濡れてしまっている。

角を曲がり、駅ビルが見えたところで思い付いた。
「ちょっと寄り道しよう」
「は?」
いつもならまっすぐホームに向かうのを、商業施設が入る方のエレベーターに飛び込んで最上階のボタンを押す。疑問符を張り付けた彼の手を取って、展望室に向かった。

「雨の日は下を向いた方がいいと思うよ」
「水たまりしか無いのに?」
「あぁ、えっと、高いところから下を見よう、って意味だ」
一面ガラス張りの展望室は天気のせいか人もまばらで。窓ガラスには雨粒が細かな模様を描いている。
「ほら」
その窓の向こう。
眼下に広がる歩道には、色鮮やかな傘の花。
赤、黄、白、ピンク、水色、緑、青に黒。
花柄、ドット、名画のプリントにキャラクター。
色とりどりの傘がアスファルトの道路一面を鮮やかに彩っている。ビビットカラーの傘は雨模様の重苦しさなど感じさせない。
「――」
無言で見つめる彼の青い目にも、輝きが戻っている。

「貴方に免じて、好きになる努力をしてみます」
うねる前髪に指を絡ませながら、彼が言う。
「じゃあまずは、傘を新調しよう」
「·····そうですね」
二人で差してきた黒い傘から、床に落ちた水滴が小さな円を描いていた。

END

「カラフル」

4/30/2024, 2:46:47 PM

常夏の楽園という言葉があるけれど、常冬という言葉は無い。楽園というと、南国のイメージがあるのは何故だろう?

もこもこの半纏を着て、コタツでぬくぬくうとうとして、手を伸ばせば届くところにポットとコーヒーとお菓子があって、時々みかんの差入れがあって、そこで一日中本を読めたら、私にとってはそここそが楽園だ。

長い旅などしなくても、功徳を積むために修行などしなくても、楽園はすぐそこにある。
要は気の持ちようなのだ。


END

「楽園」

4/29/2024, 2:26:31 PM

何もかもが遠いので、私は泣くしかないのです。
時の流れも、互いの場所も、思いの在処も、何もかもが遠く遠く離れてしまって、私の思いはどこにも行き場が無くなってしまいました。

私の願いはかなわない。私の思いは届かない。
私はそれを受け入れなければならないのに、未練がましくただ泣くしか出来ないのです。

「·····歌うのが良いでしょう」
そう答えた男の声こそ、まるで歌うようだった。
「貴方が歌えばきっと声は届くでしょう」
「歌とはそういうもの。時を超え、距離などまるで無いかのように、誰かの胸を響かせる」
そう言った男の視線は、隣で涙を流す男ではなく、ここにはいない遠い誰かを見つめている。

「風に乗って届いた声は、きっと誰かを動かすでしょう。それがいつか、巡り巡って貴方に届く。たとえ命が尽きたとしても。歌に乗せた思いというのは、消えずに残っていくものだから」
「――」
涙を流していた男は微かに目を見開いて、口元だけで小さく笑う。
「歌とはそういうものだから」
「そうですか」
小さく答えた男の声は、同時に鳴ったピアノの音にあっという間にかき消されてしまう。
それでもいいと、男は思った。

END


「風に乗って」

4/28/2024, 12:17:37 PM

人の気持ちなんて一瞬で変わる。
それまで好ましいと思ってた人を些細な事で嫌いになったり、それまで何の感情も持てなかった人に些細な事で好感情を持ったり。
怒りでも、恋でも、憎悪でも、敬愛でも、友情でも、そうやって一瞬で変わる気持ちがどれだけ持続するかだろう。

「恋なんて脳が見せる幻覚」なんて言う人がいるけれど、だったら恋以外もそうだ。
脳が見せる勘違いと思い込み。自分に都合のいいものを取捨選択してるだけ。

そう思うと面倒な人付き合いも少しはラクにならない?

――そう言ったアナタの顔が、楽しそうに見えないのはどうしてかしら?


END


「刹那」

Next