踵を上げて、背筋を伸ばして、右手をまっすぐ空へと伸ばす。
指の隙間から太陽の光が見えて、眩しそうに目を細めた。
「·····」
白い手袋で隠されているが、醜い手だ。
人を傷付けてきた手。自らを貶めた手。
この空のもっと遠く、大気を超え、宇宙の果てへと向けて手を伸ばす。
星の海を渡り、旅を続ける君へと向けて。
あの出会いは奇跡だったと、今ならわかる。
醜い手に、醜い顔に優しく触れてくれた君。
私が持つたった一つの美しいものに気付いてくれた君。その君が、今はこんなに遠い。
「いつか君へと届くよう、私は歌い続けよう」
届く筈もない言葉を、私は紡ぐ。
遠くの空へ、その遥か彼方の宙へと向けて。
君の旅が、いつか安らかな終わりを迎えられるように。
END
「遠くの空へ」
『言葉にできない』
この言葉を見た瞬間、有名シンガーソングライターのあの歌と、何枚もの写真が現れては消えていくあの映像が頭に浮かんで、刷り込まれてるなと思ったのは私だけではないと思う。
END
「言葉にできない」
桜が咲いている。
菜の花も、チューリップも、たんぽぽも、スミレも。
色彩が増え、気温も上がり、街が一気に華やかになる。それは勿論、街に住む人々も例外ではない。
「·····」
大通りを一本曲がって狭い路地に入る。
散乱したゴミの山に埋もれて、一人の男が蹲っている。蹲ったまま、華やいだ大通りに鋭く険しい視線を向けている。
コツ、コツ。堅い靴音が響く。
ゴミの散らばる路地に不釣り合いな、磨かれた革靴の先が自分の前でピタリと止まり、男は目を見開く。
「大丈夫ですか?」
響く低音。
視線を上げれば、スーツを着た一人の男がしゃがみ込んで自分を見つめていた。仕立てのいいスーツがしわくちゃだ。
「·····」
「ほどこしとか、そういうつもりじゃないんです」
差し出された手には、名前の知らない小さな花が一輪と、フィルムに包まれたマフィンが一つ。
「せっかくの春なので」
「·····」
思わず手を出してしまった自分に、男自身が驚いていた。
「美味しいですよ、それ」
男が立ち上がるのを目で追う。背が高い。すらりとした、綺麗な立ち姿だった。
春を体現したような男に、なぜか毒気を抜かれた気がする。
去っていく男の背越しに、大きな月が輝いていた。
END
「春爛漫」
あなたが一番綺麗。
あなたが一番強い。
あなたが一番·····苦しんでいる。
私はずっと見てきました。
遠く離れた場所からずっと。
あなたが正しくあろうと思えば思うほどうまくいかなかったことも、あなたが愛したもの達を守ろうとしたことも、全部全部、見てきました。
でも、あなたは誰も救えなかった。
あんなに頑張っていたのに。
あんなに苦しんでいたのに。
かわいそうに。
もう、いいでしょう?
もう、かえっていらっしゃい。
何もかも捨てて。あなたの愛に応えてくれない世界など捨てて、かえっていらっしゃい。
ここならみんな、あなたの愛に応えてくれる。
優しいあなたを、美しいあなたを、強いあなたを·····いいえ、たとえあなたが弱く脆くても、みんな温かく迎えてくれる。
あなたが一番大切だから。
他の誰がどうなろうと、世界がどうなろうと、私達には知ったことじゃないから。
だから、さあ。
早くかえっていらっしゃい。
誰よりもずっと大切な、私達の大好きなあなた。
END
「誰よりも、ずっと」
街のシンボルと言われた大きな樹。
その下で今日も人は憩いのひと時を過ごしている。
「この樹はばぁばが生まれる前からあったんだよ」
「ばぁば、ほんと?」
「ほんと。ばぁばのお父さんとお母さんも、そのまたお父さんとお母さんが生まれた頃にはもう、この樹は今と同じくらいの大きさだったんだよ」
「すごいね!」
「ずっとずっと昔から、私達を見守ってくれているんだよ」
「ふぅん」
「この街が街になるよりもずっと前、まだ森や小川があって、野うさぎが跳ねてた頃からずっと見守ってくるているんだねえ」
「うさぎさんがいたんだ」
「多分ね」
「私が大きくなっても見守ってくれてるかな」
「そうだね。これからもずっと、この樹はここで私達を見守ってくれてると思うよ」
祖母と孫の言葉に応えるように、大きな樹の枝が風に揺れて音を立てる。
ざわざわ、ざわざわ。
葉と葉が擦れて鳴る音は、二人の言葉を肯定しているのか、否定しているのか分からない。
数百年後――。
その樹は変わらず青々とした葉を茂らせて、廃墟となった無人の街を見下ろしていた。
END
「これからも、ずっと」