それは目に見えないという。
失って初めて、それが自分の中でいかに大きな存在だったかを知るという、とも。
一つの懸念がある。
死ぬまでにその感覚を味わうことが無かったら·····、私の〝大切なもの〟はどこにあるのだろう?
END
「大切なもの」
起源がはっきりしないらしい。
いくつかこれが起源ではないかという説があるにはあるが、どれも仮説の域を出ないそうだ。
ちょっと、怖い。
誰も起源を知らない風習を、世界中で、企業や公共機関や人々がなんの疑いもなく楽しんでいる。
〝嘘をつく〟という、本来罪深いはずの行いをしていい理由はなんだろう?
4月1日じゃなかったら、その嘘で世界が変わってしまう可能性だってある。小さな嘘がきっかけで、歴史が動いたり事件が起こった事だって、一度や二度では無いのだ。
いつか、エイプリルフールの〝本当〟を知る時が来るのだろうか。
その日を笑って終えられる事を、密かに祈っている。
END
「エイプリルフール」
「どうか私と結婚してください。きっと幸せにしてみせます」
王子様が言いました。
お姫様は首を縦には振りませんでした。
王子様が帰ったあと、王様が尋ねます。
「姫よ、なぜ結婚に応じないのだ?」
お姫様は答えました。
「具体的にどう幸せにして下さるのか、分からないからです。それに、わたくしの幸せが王子様の仰る幸せと同じかどうかも」
お后様が尋ねました。
「姫よ、あなたが思う幸せとはどんなものなのです?」
お姫様は少し考えるようなし仕草をして、こう答えました。
「わたくしを裏切らないことです」
隣国の姫は流行り病で王子様を失いました。
海の向こうの姫は戦争で王子様を亡くし、自身も捕らえられたと聞きます。
はるか昔の姫は王子様が別の女性を好きになって、捨てられてしまったそうです。
戦争も、災害も、流行り病も、心変わりも、仕方ない事だと思います。それ自体が辛いのではなく、それで王子様を失うこと、永遠の幸せを約束しながら、わたくしを置いていってしまうことが悲しく、許せないのです。そんな辛い気持ちを味わうくらいなら、わたくしは結婚なんてしたくありません。
「姫よ·····」
王様とお后様は聡明な、けれど頑固な愛娘がどうすれば幸せになるのかと、頭を悩ませるのでした。
END
「幸せに」
いつもいつも、笑っていた。
曖昧にえへへ、とかあはは、とか適当な笑い方で応えて誤魔化した。愛想笑いと作り笑いが得意になった。
軽く頭を下げて、微かに眉を寄せて、あははと笑って、「そうですかぁ?」と応える。
そうすれば相手は自分の言葉が場を盛り上げて、上手くコミュニケーション取れたと思っている。
そうすれば、その場はそれで丸く収まる。
何にも気付いてない。
自分の言葉にどれだけ棘があるのか。
放った言葉の矢にどれほどの毒があるのか。
自分の言葉で相手がどれだけ傷付いたか、疲弊したかが分かっていない。
こちらは日常を守る為に、自分を保つ為に、そんな棘に、そんな毒に何気ないふりをしてやり過ごしている。たった一本の棘、たった一滴の毒で人は死ぬというのに。言葉に含まれる棘と毒は、かくも軽視される。
「仏の顔も三度、って知ってますか?」
「はぁ?」
「なに言ってんの?」
ほら、ね。
何にも分かってない。
だからもう、笑うのやめました。
END
「何気ないふり」
登場人物のほとんどが悲惨な目にあったり、救われないまま終わる物語。
いわゆるバッドエンドものだけれど、それを好んで読んで、「あぁ面白かった!」と読後の充足感を得る事が出来たなら、その物語は読者にとってはハッピーエンドなのではないだろうか?
登場人物の言動、その背景にある舞台設定、裏に隠された感情の機微。それらが丁寧に描かれていること。
その感情を追体験するように、読みながら感情が揺れ動くこと。
文章や言葉遣い、文字に至るまで誤用が無く読みながらモヤモヤを感じたり引っかかったりしないこと。
そんな心地よい読書体験が出来たなら、たとえ人類全てが滅んでしまうような憂鬱な物語でも、「読んで良かった」と思える気がする。
そういうものが書けるように、私はなりたい。
END
「ハッピーエンド」