あの人が誰を好きなのか、本当はみんな知っている。
それが秘めた恋だということも。
あの人は真面目で、誠実で、優しくて。非の打ち所が無いとはああいう事を言うのだろう。
だから、なのかもしれない。
あの神秘的な目で見つめられると、勘違いしてしまう。期待をしてしまう。
あの熱のこもった美しい瞳が、ある特別な意味を持って私を見つめているのではないかと。
真面目で、誠実で、優しい彼は、ただあらゆる人に対して真面目に、誠実に向き合っているだけなのに。
あの目は、毒だ。
END
「見つめられると」
流行りの漫画の話をしていて、「面白いよ」のあとに「読んだ方がいいよ」と続くとイラッとしてしまう。
「読んだ方がいい」「読まないなんて損してる」
「見た方がいい」「見ないなんて有り得ない」
「聞いた方がいい」「聞かないなんて遅れてる」
それは私が決めること。
損しない為に本を読むというのなら、六法全書でも読んでる方がいい。
たとえその文章や、映像や、音がつまらないものだったとしても、自分の頭や感情でつまらないという事を認識したのなら、それは私の糧になる。
「危ないからやめた方がいい」とか「便利だから使った方がいい」とは明らかに違う、ただの感情論から入る「〇〇した方がいい」は、私の心を勝手にあなたと同じにならしているんじゃないの? と思ってしまう。
私の感情は私のものだよ。
END
「My Heart」
綺麗な髪と顔、すらっとした体型、明晰な頭脳、いいセンス、芸術に長けた才能、平均以上の運動神経に、恵まれた家族関係、そして何より·····お金。
無条件で「何が欲しいものある?」と聞かれたらいま上げたみたいに、際限なく答えてしまうだろう。
努力すれば何とか手に入れることが出来るものもある。というかまぁ大体は努力すれば手に入るのだ。
何が腑に落ちないって、決まってる。
生まれた時からなんの努力もしないでそれらを持っていて、人生を謳歌している人がいるってこと。
身勝手で、嫉妬深くて、その癖努力することが嫌いな私は、自分の怠惰を棚に上げてないものねだりをするしかないのだ。
あー、我ながら嫌な性格。
END
「ないもねだり」
その姿を目で追ってしまう。
その声に耳を澄ましてしまう。
意識しなければいいのに。
視界に入れなければいいのに。
相容れないと分かっているのに目が離せない。
いると分かれば探してしまう。
すれ違えば睨んでしまう(見つめてしまう)。
言葉を交わせば煽ってしまう(昂ってしまう)。
相容れない。嫌悪している。
なのにその存在は私の中でどんどんどんどん大きくなって。
決して好きではない、好きにはなれないその男への、剥き出しの感情だけが最早私を生かす燃料だった。
だから、今。
その男を失った私は、どうやって息をすればいいのか、どうやって生きていけばいいのか、進む術を失くして立ち尽くしている。
どうすればこの空白を、埋められるのだろう?
END
「好きじゃないのに」
美味しいものを食べている時、好きなテレビ番組を見ている時、推しの歌を聞いている時、好きな人と並んで歩いている時。――不意にそれは訪れる。
「なんでこんなに世の中は面倒なんだろう」
「なんでこんなに人の視線が気になるんだろう」
頭の中にむくむくと湧き出す黒雲。
それはあっという間に体中を広がって、やがて胸の一隅を占めていく。
そうなるともう駄目だ。
打ち消そうと楽しい事を考えても、黒雲はどんどんどんどん広がって、楽しかった気持ちを塗り潰していく。
季節のせい、体調のせい、何とか理由づけが出来ればまだマシな方で。
そういう外的要因が無いのに黒雲は突然湧いてくる。
叫んでどうにかなるならいい。愚痴ってどうにかなるならいい。
そうならないから困っている。
何にもないのに憂鬱で、充実しているはずなのに空っぽで、不自由はないはずなのに息苦しくて、説明出来ない苦しさに苛まれる。
こういう時を〝魔が差す〟瞬間というのだろう。
「それで殺されたんじゃ被害者は浮かばれませんわ」
嗄れた声で言いながら、年上の部下は腰をあげる。
「まぁねえ。でも、往々にしてある事だから」
差し出された血塗れの財布を受け取る。
「まだ若いのにな。かわいそうに」
「若かろうが歳取ってようが殺されるのはかわいそうな事ですよ」
「·····いやに棘のある言い方だね」
「そうですか」
――あぁ、そうか。
〝魔が差す〟瞬間ってのは、仕事が何であれ訪れるものなんだ。
部下の手に握られた拳銃の、黒くぽっかりと空いた穴を見ながら他人事のようにそんな事を思った。
いつの間にかポツポツと、冷たい雨が降り出していた。
END
「ところにより雨」