いつもいつも、笑っていた。
曖昧にえへへ、とかあはは、とか適当な笑い方で応えて誤魔化した。愛想笑いと作り笑いが得意になった。
軽く頭を下げて、微かに眉を寄せて、あははと笑って、「そうですかぁ?」と応える。
そうすれば相手は自分の言葉が場を盛り上げて、上手くコミュニケーション取れたと思っている。
そうすれば、その場はそれで丸く収まる。
何にも気付いてない。
自分の言葉にどれだけ棘があるのか。
放った言葉の矢にどれほどの毒があるのか。
自分の言葉で相手がどれだけ傷付いたか、疲弊したかが分かっていない。
こちらは日常を守る為に、自分を保つ為に、そんな棘に、そんな毒に何気ないふりをしてやり過ごしている。たった一本の棘、たった一滴の毒で人は死ぬというのに。言葉に含まれる棘と毒は、かくも軽視される。
「仏の顔も三度、って知ってますか?」
「はぁ?」
「なに言ってんの?」
ほら、ね。
何にも分かってない。
だからもう、笑うのやめました。
END
「何気ないふり」
登場人物のほとんどが悲惨な目にあったり、救われないまま終わる物語。
いわゆるバッドエンドものだけれど、それを好んで読んで、「あぁ面白かった!」と読後の充足感を得る事が出来たなら、その物語は読者にとってはハッピーエンドなのではないだろうか?
登場人物の言動、その背景にある舞台設定、裏に隠された感情の機微。それらが丁寧に描かれていること。
その感情を追体験するように、読みながら感情が揺れ動くこと。
文章や言葉遣い、文字に至るまで誤用が無く読みながらモヤモヤを感じたり引っかかったりしないこと。
そんな心地よい読書体験が出来たなら、たとえ人類全てが滅んでしまうような憂鬱な物語でも、「読んで良かった」と思える気がする。
そういうものが書けるように、私はなりたい。
END
「ハッピーエンド」
あの人が誰を好きなのか、本当はみんな知っている。
それが秘めた恋だということも。
あの人は真面目で、誠実で、優しくて。非の打ち所が無いとはああいう事を言うのだろう。
だから、なのかもしれない。
あの神秘的な目で見つめられると、勘違いしてしまう。期待をしてしまう。
あの熱のこもった美しい瞳が、ある特別な意味を持って私を見つめているのではないかと。
真面目で、誠実で、優しい彼は、ただあらゆる人に対して真面目に、誠実に向き合っているだけなのに。
あの目は、毒だ。
END
「見つめられると」
流行りの漫画の話をしていて、「面白いよ」のあとに「読んだ方がいいよ」と続くとイラッとしてしまう。
「読んだ方がいい」「読まないなんて損してる」
「見た方がいい」「見ないなんて有り得ない」
「聞いた方がいい」「聞かないなんて遅れてる」
それは私が決めること。
損しない為に本を読むというのなら、六法全書でも読んでる方がいい。
たとえその文章や、映像や、音がつまらないものだったとしても、自分の頭や感情でつまらないという事を認識したのなら、それは私の糧になる。
「危ないからやめた方がいい」とか「便利だから使った方がいい」とは明らかに違う、ただの感情論から入る「〇〇した方がいい」は、私の心を勝手にあなたと同じにならしているんじゃないの? と思ってしまう。
私の感情は私のものだよ。
END
「My Heart」
綺麗な髪と顔、すらっとした体型、明晰な頭脳、いいセンス、芸術に長けた才能、平均以上の運動神経に、恵まれた家族関係、そして何より·····お金。
無条件で「何が欲しいものある?」と聞かれたらいま上げたみたいに、際限なく答えてしまうだろう。
努力すれば何とか手に入れることが出来るものもある。というかまぁ大体は努力すれば手に入るのだ。
何が腑に落ちないって、決まってる。
生まれた時からなんの努力もしないでそれらを持っていて、人生を謳歌している人がいるってこと。
身勝手で、嫉妬深くて、その癖努力することが嫌いな私は、自分の怠惰を棚に上げてないものねだりをするしかないのだ。
あー、我ながら嫌な性格。
END
「ないもねだり」