なんとなく、やる気が出ない。何をする気も起きない。
そんな無気力な気持ちに包まれながら私はベットの上で寝転んでいる。
でも何かしなくちゃいけないと思って、とりあえずベットの上に投げやったスマートフォンを手に取るけれど、画面をつけるのすら億劫だ。
パッと、スマホの画面がついた。手が軽く触れたからか。便利な半面、今は鬱陶しかったし、腹ただしかった。
またスマホを適当にベットの上に放る。今は何も見たくない。
ゴロゴロと転がるとか、暇だとか、そんな考えさえ今の私の頭にはない。それくらいで無気力で、無感動で、とにかく…いや、脳内で言葉を紡ぐことすら…もう…。
ふと、視界の端に壁にかけたカレンダーがうつる。
1週間後に、丸のついたカレンダー。
『みぃこの誕生日』と書いてあるカレンダー。
もう、全部意味のないカレンダー。見たくなくて目を瞑っても、そこにあの子がいる。
出会ったのは…いつだったか。ペットショップだった。
みぃこは成猫になってしまった黒猫で、残酷なまでに値が下げられていた。まるで、もう価値がないと言わんばかりに。
ペットを買うなら保護猫を、と思っていたものの審査の厳しさから諦めた私にとって、その光景はあまりにも残酷なものだった。
猫を飼う準備は整ってる。整えて来た。貯蓄もばっちり…と、何があるかわからない未来に向かって言い切ることはできないけど、ある。
何より、私は猫を愛してる。
その黒猫の、真っ黒な体の中に浮かぶ琥珀色の瞳を見つめる。彼女もまた、私を見つめ返した。
衝動的にとか、安くなっていたから、とかじゃない。
この子だから良い。この子の一生を、共に歩みたい。
そう、心から思った。
…大変な毎日だった。
慣れない環境に黒猫は怯え、戸惑っていた。
トイレの場所を覚えるのも時間がかかったし、私自身猫との初めての生活に慣れないものばかりだったし。
でも、この子を迎え入れたことは、一度も後悔しなかった。
家に慣れたら慣れたで大変だった。みぃこはとんだいたずら猫だった。いや、猫というものが大概そうなのかもしれないけど。
爪とぎのポールを買い与えてもソファで爪とぎするし。すぐ机の上のものを落とすし。ぬいぐるみは無残な姿にされるし。
在宅で仕事をする日にはもう、邪魔する邪魔する。仕事が進まないったらありゃしない。
そんな大変な日々が、本当に愛おしかった。
大切だった。
大事だった。
ある日、帰ってきたらみぃこは床に倒れてぐったりとしていた。
慌てて動物病院へと駆け込んだ。もう頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。
どうか、神様。みぃこを助けて。お願いします。
何でもします。何でもするから、あの子だけは…。
毎日、毎日祈り続けた。良くなりますように。良くなりますように。良くなりますように。
それでもみぃこは、あっさりと虹の橋を渡ってしまった。
冷たく、硬くなった体を、ぎゅっと抱きしめる、あの感覚を、覚えている。
抱きしめ続けたら、みぃこの体に熱が戻って、私の体をあの小さな手で押しのけて、「にゃぁ」と鳴くんだ。
そうだ、そうなるはずだ。そうでなきゃおかしい。こんなあっさり、あっさり終わっちゃうなんて、おかしい。
でも、みぃこの体は冷たいままで。二度と鳴くことはなかった。
スマートフォンが通知を受けて、画面をつける。
待ち受けにはみぃこがいる。そこにしかもういれない、元気なみぃこがいる。
みぃこがいない生活。まだ1週間と少ししか経ってないらしい。おかしいな。もう1年以上過ぎた気がするのに。
あの子の誕生日が、近づいている。毎年毎年、おもちゃだの豪華なご飯だのをワクワクしながら用意した日。
毎日、呼んだ名前を、もう呼ぶ必要がない。
…もう、全部に意味がないのかも。
目を閉じる。みぃこがいる。視界が、あの子の黒で染まっていく。
………
夢を、見ていた。
いつの間に眠っていた私は、涙を流しながら目を覚ました。
みぃこがいた。夢の記憶はぼやけていて、でもそれだけははっきり覚えている。
初めての、誕生日の日。みぃこが、家に来た日。
ずっと決めていた名前だった。初めて、呼んだ。
「みぃこ。君の名前は、今日からみぃこだよ」
みぃこはツンとして、答えなかったけど。
ジッと、私を見つめていた。
………
「みぃこ」
呟く。
「みぃこ」
名前を呼ぶ。
…にゃぁ…
返事が、あった気がして。
私は、涙をぬぐった。
まだ何をしたら良いかとかわからないし、何もしたくない気持ちもあるけれど。
ぐっと力を込めて、立ち上がった。
きょうのテーマ 「君の名前を呼んだ日」
プシュゥと空気の抜ける軽い音を立てて、背後にある電車の扉が閉まった。
俯き気味だった顔を上げるとそこには、暗い空が広がっていた。
憂鬱だ。いや、もう家に帰るだけなのだけど。
今の職場に来て、もうそろそろで一年目。そりゃ新卒の時よりは俄然職場にも仕事にも慣れたけれども、それでも残業続きの帰り道の、この空の暗さにはどうにも気分がもってかれる。あたりの暗さと心の暗さが比例してしまう。
まだイルミネーションの時期は…マシだった。ピカピカ光る明かりが歓迎してくれているというか、見るとホッとした。が、今はそんなものはない。ただの暗闇だ。
改札を抜け、駅を出て…そうだ、夕飯の買い物を…あぁなんも思いつかない。腹は減っても作る気力がない。適当にコンビニで弁当でも買って…。
と、不意に美味しそうな匂いがどこからか漂ってきた。
足元ばかり見ていた顔を上げる。立ち並ぶどこかの民家からしているんだろう。そうか、夕飯時か。
家々に灯る温かい光。あ、この匂いは焼き魚…?あ、これはカレーだ。あぁ、母さんの作ってくれたカレーが恋しいなぁ…。
カレーの匂いって不思議だ。なぜだか嗅ぐと無性にカレーを食いたくなるし、腹が鳴る。よし。今日はカレーにしよう。
少し気分が明るくなって、僕は顔を上げて歩き出した。
きょうのおだい「風が運ぶもの」
これはまだ私が幼少の頃、祖父母の家に遊びに行ったときにあった出来事でございます。
祖父母の家は大きな河川のすぐそばに建っていて、その河川にはこれまた大きな広場がありました。
そこはとても広くよくご老人の方がゲートボールしていたり、小学生ほどの年齢の子が野球やサッカーなどの球技で遊んでいられるような場所でした。
小さなベンチが等間隔にぽつぽつとあるだけの、それこそ公園と呼べる場所でこそありませんでしたが、当時の私は走り回るのが大好きで、そんな私にとってはかっこうの遊び場でございました。ですから、祖父母の家に行く度に私は真っ直ぐ河川の土手を渡ってそこに行ったものです。
その広場なのですけれど、少し不思議なものがありました。
それは、大きな森のような場所。少し歩けば川に行き当たるような場所には不釣り合いに思うような、そんなところでございました。
川沿いに続くその森は木々がひしめき、そのうえ周囲を私の背よりも高いススキが覆っているものですから外から見ても森の中が薄暗く鬱蒼とした場所になっているのは想像できます。なにより、ススキの隙間から見える森の先の暗いこと。私はその広場の中でその森だけがどうも好きなれず、いえ、苦手でございました。
そんなある日の事。私はふっと思い立って森にそって歩いてみることにしました。
高い高いススキの横を歩き、時折横を見やってススキの隙間から森の中が見えないものかと思いましたが、厚いススキの壁はピッタリと間を閉じておりとても見えたものではありませんでした。
そんな森の終点に行き着いた時。森に、入り口があるのを発見いたしました。
木々の終わり、ススキの壁もなくなった頃古ぼけて読めたものではない看板と、素朴な木材で作られた木の道が森の中へと続いていました。
私は似たような木の道を学校で見たことがありまして、そこは小さな川の流れる自然豊かな場所でした。
そこがお気に入りの場所であった私は興味を惹かれその木の道の上にそっと足を置きました。木はきし、と軽い音を立て少し地面に沈み込みました。
あの薄気味の悪い森の中に入れるのだという高揚感と、森の中はどうなっているのだろうという好奇心が私の背中を押して、日は傾きかけていましたがこのまま先に進んでみようとさらに一歩を踏み出しました。
木の道は真っ直ぐ森の中には続いておらず少し曲がりくねり小さな小川を抜けてから森に入るようでした。
先ほどまで自分がいた場所とは一変したそこに、興奮とそれに並び立つくらいの恐怖を感じていた時です。
ガサ、と背後で音が鳴りました。
ガサ、ガサ、ガサ…音を立てているのはあの私よりずっと背の高いススキです。
最初は森の近くですし鳥か、あるいは猫かと思いました。しかし、妙なのです。
小さな動物が揺らしたにしては、音が大きいように感じました。もっと、大きな…何かがススキの中にいる。
ゾクリ、と背筋が凍りました。まだどこかで所詮動物だろう、気にせずに好奇を誘う森の中に進もうと考える私もおりましたが、どうにもその音が気になるのです。
音は変わらず続いています。ガサ、ガサとなるススキを私はジッと見つめてどこで、何が揺れているのか確かめようと思いましたがどうにもわかりません。
私の目に映るススキの壁は、依然として静かなままでどうにも動けずいた私の頭に最近読んだ怖い漫画が蘇ってきました。
日常に潜む怪異に魅入られたら最後、死ぬまで付きまとわれるというそれは私の心に恐怖を深く打ち込んでおり、もし目の前で起こっているこれがそうなのだとしたら、ススキの向こうの何かはあの『怪異』なのではないか。
そう思うと暗い森が私の恐怖心を一斉に煽りだし、心の中で森に入るなという警鐘がガンガンと鳴らされ出しました。もういてもたってもいられず、私は急いで森から抜け出し真っ直ぐ祖父母の家に帰りました。
以来私は、祖父母の家に行ってもあの広場に行くことを避けるようになりました。
というよりも、あの森に少しでも近づきたくなかったのです。
それは、大人になった今でもそうです。祖父母の家に頻繁に行くことはなくなりましたし、より近づかなくなった、ともいえます。
しかしたまにはと祖父母の家に顔を出しに行った際は、あの広場を見下ろせる土手を散歩する事が多く、自然とあの森が目に入ります。
そこは、昔と何も変わりません。未だススキの厚い壁が森の中を押し隠し続け、薄暗く鬱蒼とした森の神秘を守っています。
しかしあの森の、あのススキの中にいたのは怪異の類だったでしょうか。
あの森での話を一度母にしたことがありましたが、母はひどく顔をしかめ「中に入らなくて良かった」「夕方にあんな薄暗い場所に近づくな」と言いました。
今思えば、あれは怪異などという不確かなものではないでしょう。仮に動物にしたって危険ですし、本当にあのまま森に進まなくて良かったと思います。
あそこは、本当に暗い場所でした。時刻が夕暮れだったのを差し引いても暗すぎるほど。それに、その時刻になると人もほとんどいなくなります。実際、私はあの時一人で周囲に人の気配はありませんでした。
あの中で何があっても、私は誰にも助けてもらえなかったでしょう。
…それを、私以外の誰かが知り、誰かが森に入るのを待ち潜んでいたのなら…。
今も、あの森を見るとすぅっと血の気の引く気がいたします。
きょうのテーマ『ススキ』
「それじゃ、次はお盆に帰ってくるから」
じゃあね、と軽く手を振って兄は去っていく。
それこそ生まれた時からずっと一緒だった兄は、就職を機に家を出てもう一年以上過ぎた。兄のいない家にはすっかり慣れきったがそれでも寂しく思う。故に兄が帰る時はいつもこうやって駅まで見送るのだ。
兄が乗る電車が出るまで、待ってよう…そう考えながら駅のホームを見下ろす。
暗い街並みにぽっかり浮かぶように駅は煌々とした光を放っている。窓に張り付いたカメムシに少し目をとられながらぼぅっと外を眺める。
わたしは、夜の駅というものが好きだった。
暗闇の中光る線路。普段明るい時間にしかいかない場所の変わった一面。青白い蛍光灯の光に照らされた無機質な通路。それら全てがわたしの中の何かを刺激するようで、胸のざわつきと高揚感にどこか落ち着かなくなる。
ふっと、窓の外の線路の先に光が灯った。兄の乗る電車が来たのだ。電車の明かりはどんどん大きくなりそれが電車であることを主張する。
あぁ、兄が行ってしまう。
止めることは叶わないし、仮に止められても…と考えても寂しいものは寂しい。
じっと電車を眺める。いつも乗っているものと同じ車両。家族で出かけるときにいつも乗った電車。
プシュウという小気味良い音が聞こえ、電車は音を立てて走り出した。真っ暗闇を裂いた光も、次第に見えなくなっていく。
帰る前に駅をぐるりと見回す。なぜこうも物悲しく感じるのか考えたかった。
でも考えは直ぐにまとまってしまった。
単純な話、ここは普段の来ない非日常の塊だからなのと、どこかに遠出した際はこれくらいの時間に返ってくることが多くて、その時の見知った場所に帰ってきた安堵と、楽しい時間が終わってしまった楽しみが同居していた。
わかったら、わたしはさっさと駅を出た。
女一人で夜道を歩くのは危ないと親からも兄からも口酸っぱく言われていたのを思い出しながら駅を出て、しばらく歩いて振り返る。
田舎の方のわが町に似つかわしくない近未来的な姿。眩しく輝くその姿に目を細めながらわたしは前に向き直り家へと歩き続ける。
この夜の駅にもう一度くるのは、盆休みに帰ってきた兄が帰るときくらいなものだろう。
軽く後ろ髪をひかれるような思いを抱きながらわたしもあの電車と同じように暗くなり始めた町に消えていった。
きょうのおだい『夜景』
家を出て、自転車で約三十分。緩やかな下り坂を降りていったとこにある、小さな植物園。
幼い頃から私にとって、そこは大切な場所だった。
…とはいえ、なにか大それた事情とか、素晴らしい青春とかがあった訳じゃない。むしろ逆だ。ここでは大層なことはなにも起こらなかった。
でも、だからこそというべきか…ここは、どんなときに来ても変わらず私を出迎え、ただ黙ってそこにいてくれた。
入園無料。さっと見ただけでも人が一人二人いる程度。休日だと近所の家族連れで少し賑わうものの、やはりいつも人は少ない。一人静かに歩きたい私には、ぴったりだ。
古めかしい鉄製の大きな門は、塗られていた白い塗装も剥がれかけ、錆も目立つ。手で触れると塗装がぽろぽろと剥がれて、触れた手も白く汚れた。
門をくぐって、正面にあるのは円形に窪んだ広場と、中心に鎮座する花時計だ。低い位置にある花時計は、ここにいるとよく見える。
右手にはこれまた古ぼけた小さな小屋がきれいに並んでいる。右から土産屋、雑貨屋、軽食屋…この植物園の、唯一の店だ。
私は軽食屋に立ち寄りドリンクを買って、それを片手に歩き出した。
ドリンクに軽く口をつけながら、植物園をぶらりと見て回る。爽やかな緑の香り。すぅっと息を吸い込んで、吐き出す。胸につかえてたものが落ちたような爽快感。ここにくると、いつもどこか現実感が薄れて日常から抜け出したような気分になる。気持ちも新たに、私はビニールハウスに足を向けた。
そのビニールハウスの中は、薔薇で埋め尽くされている。
世界のバラ、と書かれた看板には品種がどうとか見頃がどうとか書かれている。…が、まともに読んだことはない。今日もさっと目を向けると直ぐに薔薇に目を移した。
青々した緑の中にある赤やピンクの薔薇の花は見る人の目をグッと引き付ける。立派な大輪の薔薇を眺めながら、ビニールハウス内をゆっくりと歩いていく。すべての花を見終わる頃には、ハウス内を一周出来るつくりだ。
好きな品種の薔薇は時期外れで咲いてはいなかったのが少しだけ残念だったが、まぁそれでも薔薇の美しさに変わりはない。かの花が出す華やかな香りに胸をいっぱいにしながら、ゆっくりゆっくりと歩いていった。
ビニールハウスの外に出ると、涼しやな風がひゅうと吹いた。花に夢中になりいつもつい忘れてしまうのだが、ビニールハウスの温度は外より高い。いつの間にか火照っていた頰を風が優しく撫で、心地よい充実感に満たされる。
さて、と私は次に向かう場所を見やる。ここからでも見えるのは、一面に咲くコスモス畑だ。
実を言うと、この植物園に向かうのはあれが大半の理由だ。四季折々、違う姿を見せる花畑だが私はその中でもコスモスの咲くこの時期が一番好きだった。
小さい頃は身の丈以上あったコスモス畑も、今や見下ろせる。それこそ昔はこの花畑の中には妖精の暮らす町があるのだと誰に教えられるわけでもなく信じていたのを思い出し、懐かしさに笑みが浮かんだ。
コスモスは、好きだ。特に小学生の頃教科書に載っていた話にコスモスがでてきて以来、より好きなった。
その姿は可愛らしいだけでなく、私の過去を優しく掘り起こして撫でてくれるのだ。
ピンク、紫、赤…様々な色のコスモスに目をやりながらのんびり歩いて…とうとう、花畑の終わりにたどり着いてしまった。この瞬間は、いつもどうしようなく寂しくなる。
花畑を名残惜しく思いながら、背を向けて出口へと歩き出す。
またね、というように風が背中を押した。
きょうのおだい 『花畑』