マル

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 家を出て、自転車で約三十分。緩やかな下り坂を降りていったとこにある、小さな植物園。
 幼い頃から私にとって、そこは大切な場所だった。
 …とはいえ、なにか大それた事情とか、素晴らしい青春とかがあった訳じゃない。むしろ逆だ。ここでは大層なことはなにも起こらなかった。
 でも、だからこそというべきか…ここは、どんなときに来ても変わらず私を出迎え、ただ黙ってそこにいてくれた。

 入園無料。さっと見ただけでも人が一人二人いる程度。休日だと近所の家族連れで少し賑わうものの、やはりいつも人は少ない。一人静かに歩きたい私には、ぴったりだ。
 古めかしい鉄製の大きな門は、塗られていた白い塗装も剥がれかけ、錆も目立つ。手で触れると塗装がぽろぽろと剥がれて、触れた手も白く汚れた。
 門をくぐって、正面にあるのは円形に窪んだ広場と、中心に鎮座する花時計だ。低い位置にある花時計は、ここにいるとよく見える。
 右手にはこれまた古ぼけた小さな小屋がきれいに並んでいる。右から土産屋、雑貨屋、軽食屋…この植物園の、唯一の店だ。
 私は軽食屋に立ち寄りドリンクを買って、それを片手に歩き出した。

 ドリンクに軽く口をつけながら、植物園をぶらりと見て回る。爽やかな緑の香り。すぅっと息を吸い込んで、吐き出す。胸につかえてたものが落ちたような爽快感。ここにくると、いつもどこか現実感が薄れて日常から抜け出したような気分になる。気持ちも新たに、私はビニールハウスに足を向けた。
 
 そのビニールハウスの中は、薔薇で埋め尽くされている。
世界のバラ、と書かれた看板には品種がどうとか見頃がどうとか書かれている。…が、まともに読んだことはない。今日もさっと目を向けると直ぐに薔薇に目を移した。
 青々した緑の中にある赤やピンクの薔薇の花は見る人の目をグッと引き付ける。立派な大輪の薔薇を眺めながら、ビニールハウス内をゆっくりと歩いていく。すべての花を見終わる頃には、ハウス内を一周出来るつくりだ。
 好きな品種の薔薇は時期外れで咲いてはいなかったのが少しだけ残念だったが、まぁそれでも薔薇の美しさに変わりはない。かの花が出す華やかな香りに胸をいっぱいにしながら、ゆっくりゆっくりと歩いていった。

 ビニールハウスの外に出ると、涼しやな風がひゅうと吹いた。花に夢中になりいつもつい忘れてしまうのだが、ビニールハウスの温度は外より高い。いつの間にか火照っていた頰を風が優しく撫で、心地よい充実感に満たされる。
 さて、と私は次に向かう場所を見やる。ここからでも見えるのは、一面に咲くコスモス畑だ。

 実を言うと、この植物園に向かうのはあれが大半の理由だ。四季折々、違う姿を見せる花畑だが私はその中でもコスモスの咲くこの時期が一番好きだった。
 小さい頃は身の丈以上あったコスモス畑も、今や見下ろせる。それこそ昔はこの花畑の中には妖精の暮らす町があるのだと誰に教えられるわけでもなく信じていたのを思い出し、懐かしさに笑みが浮かんだ。
 コスモスは、好きだ。特に小学生の頃教科書に載っていた話にコスモスがでてきて以来、より好きなった。
 その姿は可愛らしいだけでなく、私の過去を優しく掘り起こして撫でてくれるのだ。
 ピンク、紫、赤…様々な色のコスモスに目をやりながらのんびり歩いて…とうとう、花畑の終わりにたどり着いてしまった。この瞬間は、いつもどうしようなく寂しくなる。

 花畑を名残惜しく思いながら、背を向けて出口へと歩き出す。
 またね、というように風が背中を押した。





きょうのおだい 『花畑』

9/17/2024, 5:13:19 PM