きっと明日も
私はずっとここにいる。小さな画面を叩きながら、文字を紡いで指で語っている。光るディスプレイが帯びる熱は、日常の夜を照らす街灯に似ている。
きっとあなたも、そこにいるのでしょう?
明日も、明後日も、その次も。
指紋の擦りきれた指は言葉を探しつづける。
たとえ、私たちに文才などあろうはずがなくとも。
ただ、光あれと。
嵐が来ようとも
嵐が来ようが、来なかろうが、玄関の戸を叩く音はない。
郵便配達のひとだって、区役所のひとだって、僕がここで生きていることを知らない。
「大雨です。避難してくださーい」
呼び掛けは僕を飛び越えて、三軒隣を揺さぶりにいく。
僕の存在を知るのは、君だけだった。けれど2週間前、君は「もうこんな所に用はない」と言った。
「さよなら」
「ああ、さよなら」
それでこうして僕は、ひとりで息を詰めている。
雨音のなか。嵐のなか。土砂が崩れて、古いテレビが鳴いて、君の記憶が豆腐のように崩れていくのを待っている。
鳥かご
昔インコを飼っていたんだと、会社の先輩が話してくれた。奇遇にも、僕も数年前までオウムと暮らしていた。鳥飼い同士、思わぬ共通点にふたりで大いに盛り上がることとなり、連絡先を交換して家に帰ることになった。
帰宅後、ビールを飲みながら先輩の話を思い出すうちに、どうにも懐かしさが抑えがたくなった。
それで夜8時、押し入れの明かりをつけて、薄暗い棚の奥に仕舞い込んでいた鳥かごをひっぱりだそうとした時に、異常な光景を目にすることになった。
《鳥かごのなかに、◯◯マートのラベルシールが貼られた鶏もも肉300gのパックが置かれている。》
僕は檻ごしに、まじまじとそれを見つめる。消費期限は今日だ。製造日の欄には、4日前の日付が記載されていた。
「こんなことってある?」
僕は自問自答する。
オウムのタナベクンが死んでしまってから、数年間放置してきて、ずっと触れもしなかった鳥かごの中に、なぜかスーパーの肉が入っている。たちの悪いイタズラだろうか。
でも誰が?どうしてこんなことを?何か、養鶏に対する主義主張を持つ人のアートなのだろうか?
疑問はたくさんあるけれど、このままこれを放ってはおけない。ここは美術館ではなく、7月末を暮らす僕の家だからだ。この暑さのなか、鳥かごの中の肉を放置しておくとどうなるか、想像するのは難しくない。
とりあえず取り出さなければ、救うこともできない。扉を少し揺さぶってみたが、さびついているのか動かなかった。クレゴーゴーロク(という、自転車の手入れなどに使うオイルがあるのだけど)なら何とかなるかもしれないけれど、食材の上に、体に悪そうな油がかかるのは嫌だ。
なら、ペンチで鉄柵をねじきってみようと、部屋から青い工具箱を持ってきたけれど、それもうまくいかなかった。ドライバー・セットが3セット入っているだけだったのだ。3本のマイナスドライバーと、15本以上のプラスドライバーが僕を静かに見つめている。
「それで、我々に何をしてほしいんですか?」といいたげに。
20分ほど僕は黙考した。最終的に残された道は3つのように思われた。
―――――
①鳥かごごと、お肉を冷蔵庫に仕舞う。ただしその場合、冷蔵庫に入っているすべての食材を外に出さなければならない。鳥かごは鳥を飼うための檻だ。それは存在するにあたって、それなりの大きさであることを強いられている。
②鳥かごをゴミ袋に入れて、今週の燃えるゴミの日を待つ。この場合、方向性はシンプルだ。ただし、ゴミの日は数日先なので、それまでの間、僕はこの夏を静かに腐敗していく肉と暮らさねばならない。
③家から逃げ出す。そして永遠に戻らない。少なくとも、僕以外の誰かが事態をなんとかしてくれるまでは。ゴキブリが出たとき、家族に任せて逃げ出すように、不条理を他人に譲って身を隠す。
―――――
強く惹かれたのは③だが、あまりにそれは夢想が過ぎるものだった。自分の住みかから、永遠に逃げることなどできようもない。家賃、ガス・水道・光熱費も、毎月つつましく僕の帰りを待っている。
かといって①もおかしい。肉ひとつのためにその他すべての食材を捨てるのは、どうなのだろう?しかもその肉は急に僕の前に現れたもので、なにひとつ思い入れのある存在でもなかった。◯◯マートで、ひとつひとつ値段を確認して買い物かごに入れたとか、恋人に美味しいご飯を作ってあげたくて買ったとか、そういうものでもない。
言うなれば、その鶏肉は、突然出会った他人なのだ。
答えは②しかない。捨てるしかないのだ。オウムのタナベクンが10年も暮らした家だとしても、そうするしかない。
そう思った途端に脱力感が湧いた。僕は埃っぽい床に座り込んで、その鳥かごを見つめる。タナベクン、と弱々しく記憶のなかの友人に話しかける。
君の思いでの家を破壊しちゃってもいいかな。正直あんまりいいことのように思えないんだけど、肉が腐ると困るんだと言ってみる。
薄汚れた押し入れのなかで、鶏肉がこちらを見ている。
死んだタナベクンよりも立派な亡骸が、こちらを見ている。
友情
あなたが死ぬなら私も死のう。
風鈴。固いフローリングの上。吹き出す汗。
弟たちと無言で転がっている。
「お腹空いたなあ」
「勝手に下おりてパン食べたらあかんかな」
「あかんよ。パパに怒られるやん」
日曜日はいつも、親たちは昼まで起きてこない。
お腹空いた、とでも言いに行こうものなら、父が「ガキの癖に何様や」と、苛立って壁や私たちを殴るから、みんなずっと苦しいくらいお腹を空かせて待っていた。
辛かった。
殴られたり、裸で放り出されたり、土下座させられたり殺してやると言われ続けることよりも、あの耐え忍ぶ空腹の時間は本当に辛かった。
これは創作の話じゃない。
遠い日の記憶