声が枯れる
音が枯れる
心が枯れる
歩みが枯れる
事象が枯れる
見えない見ない
言えない言わない
聞こえない聞かない
「愚か者」を見ては蔑む目を閉じ
愛の欠落した知識を吹き込む口を閉じ
命の声を聞かぬ耳を閉じ
しかしいのちはやまぬ
棄てることも叶わず
逃げてもついてくる
物理の身体のあるなし問わず
気軽な無責任に踊って大切な交差点を見失い
壊れの成就の後に泣く
突き抜ける目をひらけ
ウワツラ丸呑みじゃまさに「愚か者」
叡智と愛とを以て両輪と成せ
オノレの責をただしくあらしめよ
いのちの響きと香を聞け
閉ざしたが故の妄想の霧を払え
「空から罰を受けているのだ」と言うものの
自らを処罰しているだけ
寂しさに涙をこぼしているのに
自分の中に沈む愛も見ず言わず聞かず
鍵を持ちながら鍵があることに気づかない
私がここで声を枯らしても
傲慢な厭世で見下ろすうちは届かぬでしょう
あの子が悲痛に叫んでいても
伝わる命に気づかぬうちは麻痺しているでしょう
「咲く花すら自分を切りつける」と
自分で生み出した花を尖らせる
あなたは無傷であの子たちは血塗れ
自分の観の地獄くらい自分自身に受けなさい
明日の平穏を呟くならば
やわらかな光
「今あなたにはリトリートが必要です。ごちゃごちゃと考えるのを今は横に置いて、静かになって休みましょう」……休みたいのはやまやまだが、休んでいては暮らせない。
秋のやわらかな陽の光
静かに響くギターの音
あたたかく香るコーヒー
心配のない感覚と身体のぬくみ
…あつらえることはできそうだ。
森の中に沈んで引きこもっても心は晴れない、多分。何を見て何を思い、どう反応するか決める力は私自身のものだ。私は「不和」に疲れていることに気づいた。
「世界」との不和
自分の世界を展開しているのは自分なのに。
「自分」との不和
自分が嫌いだと投げ出すのは生得権の放棄だ。
「状況」との不和
今ここで学び愛し、ここから歩き出すしかないのに。呪詛を吐いて解決するなら今ごろみんな幸せになってる。
今の自分にできることは何か、見つけてまっすぐ進むために「休む」なら、無為の停止ではないのだろう。やわらかな光が微笑みの気配を纏うのは、そんなところに由来するのかもしれない。
鋭い眼差し
最近、怖がられる。
怖いとか、静かにしていても威圧感があるとか、目線を向けただけで、あるいは、すーんと息を吐いただけで、ごめんなさいなどと言われたり。
ちょっとまて。何その顔面凶器に対するような反応。あらためて鏡を覗いてみても、疲れた顔の中年が映るばかりだ。ただ、遣り場の無いもやもやした怒りは確かに降り積もっている。突破ルートを指さしても動き出さない源流の心。…私、居なくても良くね?…
「郡司ちゃんから鋭いトゲトゲがいっぱい出てるんだもん」なんて評価する少年少女。そういえば、「あなたは鬼か菩薩か? あなたは“何”なの?」と問われたのも、そんなに前じゃない記憶。
白と黒がそれぞれ載る天秤のバランス点に立ち、光を杖にして闇を取り扱う。鬼の力で闘い、菩薩の学びを差し出す。この惑星で、乱暴と盲目をすり抜けて安寧の成長を支援する変幻自在を顕すには、「鬼の姿も持てる仁慈」を修める必要もあると、ここ5~6年に痛感した。…間に合うのか自分。
子どものように
子どものように、って、どんなことが「子ども特有」なんだろう?
今でもぺそぺそ泣き出したいときはある。
今でもおやつは嬉しい。胃袋がついてきてくれるなら。
今でも心が迷子になったりする。
今でも夢見るものがある。
今でも痛いものは痛いし、ヤなものはヤだ。
多少のガマンはするけど、子どもの頃は今よりずっと、たくさんガマンしていた。
半世紀を生きるうちに「そうなのかー」と知ったり実感したりして、いくつかの物事にどんな心的態度でいるかという方向性を決めたりしたけれど、自分のどこが「子どもじゃなくなった」のかは、さっぱりわからない。
たぶん、変わるのは立ち位置と責任への態度だ。
昔、祖母に聞いてみたことがある。
「どんなに歳をとっても、自分のなかみは変わらないでしょ?」と。
祖母は言った。「そうだな」と。
実を言えば、子ども達ともきゃもきゃ遊ぶときがいちばん楽しい。「子どものよう」どころか、たぶん、いや絶対、私は子どもなのだ…
涙の理由
タマネギ。うっかり鼻呼吸のままタマネギを切って、作業を中断。涙を拭い、鼻をかんで、手を洗って、自分の学習能力の無さを一瞬だけ考えて、またタマネギを切る。最も明確な「涙の理由」だ。
自分自身で理由のわからない涙もたまにあるが、歳をとったせいか「良い心の話」や「小さな子ども達の全力」を見たりしたら涙腺に来る。柴田理恵さんナカーマ(笑)。
どこかで気づいている自分自身の胸の内。