不完全な僕
伸びしろのある僕、って言いなおすべきだね。
言い方を裏返すだけで光の量が劇的に変わる。
みんながんばれ。
我もがんばる。
香水
綺麗なガラスびんに詰められた、不思議なもの。
おばあちゃんやお母さんが普段は大事にしまって、大事なときに出して少しだけつけてるいい匂い。
いつもとちょっと違う華やかな空気の記憶とともにある、その時代の香り。鏡台が大活躍する日。
子どもの頃の香水の記憶は、そんな面影がある。
さて、香りのおしゃれが香水の本面目なのだが、当然皆さまよう。私も彷徨った時期があった。
香水の濃度では難しく感じてオー・ド・トワレ。
いい香りと思うものと、しっくりくるものは違う。
カボティーヌで若さを妬まれ、ミス・ジャガーじゃ使いにくくて通行止め。サンローランイグレッグは30年早過ぎる香り(祖母に貰ってもらった)。彷徨った果てに落ち着いたのは、ディオールのファーレンハイト。ラインナップが増えて現在は“クラシック”と付いている。…まあ、もう滅多に使わなくなってしまっているが。
昨年だったかその前だったか、海辺に打ち上げられた鯨から発見された大きなアンバーグリス塊を、どこかのメゾンが買い取ったことがニュースになった。
さて、このアンバーグリスというものの匂いを、うちの子ども達は嫌がる。間違いなく良い匂いに類するのだが、その由来がダメらしい。実は多くの日本の家庭で、昔は珍しくない香りだった。「龍涎香」で、“おばあちゃん家の仏間の匂い”なイメージだ。
そんな香りなので私は気分的に落ち着く。
鯨の何が香るのかというと、鯨が食べたイカのクチバシが鯨の腸管内を傷つけないように、腸管内に分泌される粘液でイカの硬いクチバシを包んで、ウンコと一緒に排出する粘液塊が香るのだ。「それがアンバーグリスって呼ばれていて、香水の原料に使われたりするんだよー」と、子どもに話したら、「鯨のウンコのにおい」などと言い出した。いや、ウンコじゃなくてね…と言っても聞きやせぬ。
なので、リラックスを求めて私が時々使っている練り香水も、「鯨のウンコのにおい」というコメントが飛んで来る。違うっつの。ちなみに、私の使っているやつは近似分子構造の合成香料で、鯨に由来する天然香料ではない。ますますウンコじゃないぞ。
香りは結局、精神状態に働きかける効果が高い。
引き締まった集中力のためにファーレンハイトを使い、落ち着いて静かに緩むためにアンバーグリスを使う。私はどうも、おばあちゃんやお母さん達みたいに上手に「おしゃれ」に取り込めていない。
華やかで素敵な、不思議な魔法の小びんというイメージを、子ども達に持たせる力量が無いようだ…
言葉はいらない。ただ……
ある程度以上の年月を生きているうちには、どんな言葉も当てはめられないような気がしてしまう物事を経験することもある。
どんな言葉も野暮に感じられてしまうようなことも、無いでは無い。言葉を充てることなく、ただ「行間を見る」ような「体験の仕方」が、最も多くを受け取れることもある。
それは大切なときだ。言葉という形を介さないで、ただ深く広い大切な何かに、自分の心を開いているときだ。
ただ、そのようなものを何とか正確に、言葉に組み上げようとする試みには大いに意味深さがあると思う。それはまさに「突破」しようとする指向性の動きであり、「更なる理解へのインデックス」を生み出すから。
生きる根幹で起こることに言葉の理屈はいらない。ただ、その事象の核心や全体の奥に見えたものを言葉にすることができれば、その「概念のフレーム」はたくさんの人が共有可能な「間口」になる。
突然の君の訪問
さて、わが家に来る人達は皆、全く突然現れる。
だいぶ「突然の訪問」に慣れてしまったくらいだ。
そして大抵は、のっぴきならない案件を携えている。
ときには当人自身が「のっぴきならない案件」そのものであることすらある。
物理的空間距離を無視。
次元領域の波動差も無視。
この現実での価値基準も無視。
たまに時間概念も無視。
地球の「二極性ゆえの顕れ」も無視。
「本当は何者」かも互いに無視。
ただ、皆自分の願いについては率直に述べる。
…みんな、いろいろする場所を間違ってないか?
誰かが顕れて「で、誰?」と問うのも実はかなり緊張するんだが。
そんなことが多過ぎて、「だいたいスタンダード」なものに安心するようになってしまっている。「だいたいスタンダードのアバウトな平穏」は重要だ。
私の日記帳
日記の始まりは船の航海日誌だったという。
確かに、航海日誌よろしく日々記録を取っていた、祖母のバイタル。体調が良いときは基本的事項のノートのみ。体調不良やケガのあいだは特記ノートを併用する。関わる人全体で情報共有することで、「的外れな対処」を防げるし、医療の関わりもスムーズになる。
今日は初七日法要だった。
最初の二日間は何かつっかい棒が外れて転んだような困惑の中に居た。思考回路が涙漬け脳みたいになって止まることもあると知った。
静かに突然に、祖母は心臓疾患で呼吸を止めていた。緊急のしらせに駆け付け、祖母の右手を取ったら握り返してきた。息は止まっているのに、握り返してきた。身体はまだ温かさを残している。救急を呼び、指示により心臓マッサージ。到着は速く、すぐに救急隊に交代。救急隊が持ち込み計器で状態の確認をする。…と、「亡くなって時間が経っていると思われます。蘇生の可能性はほぼ無いと思われますが、搬送しますか?」と言った。
その後は警察による手続きで、夜には死体検案書が渡された。医師の所見によると、息を引き取った時間は救急隊到着の1時間ほど前、とあった。
1時間。握り返してきた右手。
1時間も待たせてしまった。
1時間も待っていてくれた。
それがどんなに大きなエネルギーを必要とするか、私は知っている。強い意志の力と、意志を支えるねがいが無ければ、到底なせないことであることを、私は知っている。
「もし、ああしていれば」という後悔もある。けど、待っていてくれたことを大きな杖として、だいじに持ってゆく。
…ここが日記帳みたいなものだ。こんな、楽しくもないことでも書ける。