あなたがいたから
前略 愛する相棒どの
手紙無精を許してほしい。時間はどんどん速さを増しているようだ。さて、時間自体が速いのか、時間のなかにあるものが膨大になっているのか、忙しさの解消はなかなか叶わぬよ、トホホ…
地上に対処を要するものごとが増えたね。以前とは世界の様相がかなり違ってきた。実のところ、この変遷は必ずというほど顕れるパターンでもある。だからこそ手伝いが必要で、我らのような「奉仕者」のそれぞれが、多彩な方法で道行きに伴走する。だがこれには人間という焦点の助けがなければ、到底為し得ぬことだ。何故なら、人間達自身が自分でやらねばならぬことであり、それが人間の尊厳だからだ。とにかく、今というフェーズは、人間の世界認識が誤解へ沈み切らぬように調整を手伝うことが必要なのだ。
このところの人間達の領域は、あらゆるレベルで「顕現の姿・表現」が、“尖って”きている。なので、作用をつつがなく伝達するためのフィールド調整も、以前にはなかった「強度」を持たせねば、普段から辺りに錯綜する「質の違う不要なもの」を弾き飛ばすことが難しい状況だ。基本的な方向性も目指すところも不変なのだが、この点だけに少し大きな変更が加わる。負荷も変わることと思うが、相棒どのであれば大丈夫……で、あろう。様子を見ながら調整するつもりだ。
まず、都度、各地点に皆が集まる。皆とは、これまでに旅した各地で力を注いでくれた、各地の龍達だ。地龍・水龍・海龍・地球龍…他にも。一斉に集まるので、そこそこ祭りの様相となる。既に皆とは相談ずみだ。我はわくわくしておるよ。
そういえば、我にどこぞの子どもが黒い小石を投げよって、当たった反動で額にも角が生えたのじゃ。我の見かけがまたもや「アレな感じ」になったが、気にせぬように頼む。
相棒どのが居ってくれるので、いつも楽しく幸せな我なのだ。のびのびできるからのう。
銀龍 oración より
今日はお題にかかわらず。
アイデンティティクライシスに遭遇している、たぶん。ここの筆も書きかけては止まる。
私は「何」か。存在の本来性は揺るがないのだが、対峙している状況にとって、自分が「何」か、おぼろげな感覚で見えかけているものに、落ち着かない。
もう少し、凝視してみる。
未来
未来として顕現してくるものが、喜ばしいものであるように。哀しいものを目指すことは贖いにはなり得ない。人工の「罪」など捨ててしまえ。「罪」が先か、「罰」が先か、何もかもが同時に顕れる“創造のフィールド”だと知っていて何を責める。
「なにもない」のに
私は日々一瞬一瞬に顕れる選択肢から、より「光」の多く豊かなものを選ぶ。私は「光」を選び取る。
私の方舟に入った者達、皆々すでに旅路の一部を載せたのだ。私は在るものが在り無いものが無い自分自身へ突破する。皆逃れ得ない。
その歯がゆい幻妄を焼き払え。「地獄」は“流れるだけ”だ。本当の「覚悟」が何かを履き違えるな。己を削いでゆくなら徹底しろ。削ぎ切ればわかる、哀しむべきものの「無い」ことが。
確かにいのちのうたいは、どんなすがたも愛しやまぬ。しかし執するな友よ。哀しい行方を決めるな。
哀しませるのもまた「罪」であろうに。
あじさい
どれもこれもあじさい、という場所がある。丘珠空港の近くだ。青・空色・薄紫・薄紅・紅色・赤紫・白・薄黄・緑色……すべてあじさいの色だ。花のありようも色もそれぞれだが、近づいて見てみると確かにどれもあじさいの仲間だとわかる。なんだか、人間の姿にも通じるものを感じる。
さて、昔に母の植えたあじさいは、基本的に青色で咲く。それが昨年は唐突に濃い赤紫で咲いた。…父がその辺りに何か埋めたのだろうか? 確か、昔父の飼っていた犬が死んだときに父はあじさいの近くに亡きがらを埋めた。深く掘って埋めたが、翌年あじさいは薄赤く咲いた。何故か得体の知れないキノコも生えたが……などと思っていたら、少し離れた場所に咲いたあじさいも同様の赤紫だった。誰かが何か埋めたのではなくて、多分、冬の雪のせいだ。
あじさいの色が環境の化学状態に左右されるのはよく知られているところだが、ここ数年の雪は、「しょっぱい」雪だった。また、旭岳の稜線から家の玄関のタタキまで、冬を越える度に黒くなる。タールだ。大陸から飛んで拡がる化学物質も多岐にわたる。あじさいの生きている地面だって当然、その影響を受ける。
あじさいの色変わりは静かだけど、とても重要な事実を知らせているようだ。
街
今年は例年に輪をかけて、住処の周りが賑やかだ。
やたらに鳥が多い。スズメ・カケス・エナガ・ムクドリ・モズ・ヤマバト・フクロウ。そしてカラスもやたら多い。少し離れた場所にあった養豚業者が廃業したので、手近なこちらに移動して来たのだろう。タカやトンビは居なくなった。さすがにキジは山から出て来ない。
キツネも近くに住んでいるようだ。タヌキは見かけないがヒグマがすぐ近くの河川敷を移動に使う可能性が高い。そういえば数年前、川向こうの学校グラウンドにはシカが数日間滞在していた。昨年は直近の国道わきに座り込むシカと無線で話す警察官。シカが車に引っ掛けられたようだ。
これは「市」というところの、そこそこ人の暮らす住宅街エリアでの状況だ。私の住処から3キロ程度の距離の山に熊が暮らしているのは昔からだけど、これほど山の生きものが住宅街エリアに出てくることは、これまで無かった。
先日、フクロウに喰われたらしいトンビの、頭から片方の翼の骨が、小学生たちの通学路に植わっている松の木の上から落ちてきた。なんだなんだと集まる小学生たち。大きな道路で交通量も多い。そんな場所の松の木の梢が、近くに住み始めたフクロウの食事場所だったようだ。カラスが運ぶには大き過ぎる。
さて、そんなこんなの状況に、人間達はどう反応しているかというと、街の周辺の山々に、ヒグマの頭数が増えたのではないかと噂している。「生態系」は、集団引っ越しで「移動」する。食物連鎖があるからだ。
もともと熊撃ちのおじいちゃん達が多かったから、近所にはガン・ショップもある。銃弾は消耗品なのだ。ある意味で、たまに出現する「人間の犯罪者」よりも、ヒグマの方がよほど恐い。
ヒグマをはじめ、他の動物達を遠ざける方法は無いでもない。でも、現代の人達には無理だろう。人間達は、「生きものとしての縄張り主張」を暮らしのシステムから外して久しい(つまりアレですよ、アレ)。山の動物達から、「生きもののなかま」としては、なかなか認識してもらいにくくなっていそうだ。
今年もまた、近くの川沿いをヒグマが通るかもしれない。やだなぁ…