郡司

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5/31/2024, 1:31:18 PM

無垢

仏教の言葉では、「煩悩のけがれの無いこと」を意味する。

猫又が「おなかすいた」と言ったので、私は自分の手を差し出して言った。「じゃあ私のあげるよ」と。猫又の返事は「いらない。そんなの食べたらお腹壊しちゃうもん」だった。猫又は生気を摂取するのだが、私の目を盗んで子どもたちの生気をつまみ食いしているようだった。

「子どものがいい。今は不安定ぽくておいしそうだもん」
成長期の揺らぎがあるせいでいまいち安定を欠く子どもの生気を喰わせろと、ニヤニヤしながら言う。
「普通程度の量しか持ってないからダメ。私なら限りないから大丈夫。ほれ、遠慮せず」
「いやーだ。あなたのは美味しくないもん。そんな安定したのなんか、つまんない」
「贅沢言うんじゃないの。食べ放題なんだからいいじゃない」
「やだ!」
「ワガママ言わないの。だいたい遠慮せず喰えなんて言うのは私くらいでしょうが」
「イヤー! だって脂っこいんだもん! お腹壊しちゃうんだってば!」
…という時点で爆笑する子ども。ちょっと、失礼じゃないの。言うにこと書いて脂っこいとか。よし、絶対私の以外は喰わせぬ。私は猫又を取り押さえて、思いっきりわざとらしく、「脂っこく」、遠慮するなと迫った。猫又は子ども達に「たすけてー!」と手を伸ばしていたが、それもすぐつかんで押さえていたら、あさってへ逃げて行った。

私が無垢という状態じゃないことは猫又が太鼓判を押した。

猫又よ知っておけ、人間の大人というものは、己の無垢をしまい込まねばならないときがあるのだ。無垢そのものである命は誰も皆、自分の最奥に持っている。見つけられないのはお前の力量不足というものだ、修業しろ。…って、お前まだ子猫だったわね。仕方ないか。

でも、子ども達の生気を喰ったら仕置きだぞ。

5/31/2024, 2:24:52 AM

終わりなき旅

旅路に区切りはつくが、もとより終わりなど無い。
これが喜ばしい知らせになる人もあれば、悲報としてうけとる人もあるのだろう。

幸か不幸か「死ねば終わり」ではないのだ。“そんなことは生きてる内に判るわけない”と強く思われる向きもあるだろう。だが私は、いわゆる「あの世」へ「遷移した(つまり一般に“死んだ”と呼ばれている地点を通過した後である状態の)」人たちとずいぶん出会った。多くの人は、その人なりにお元気だ。仏壇にお供えするものは実際にあちらに出る。病を得て去った方々も、その後はいろいろだ。早々に苦痛を手放す方もあれば、しばらく苦痛を携える方もある。そして、いわゆる「この世」の側から、あちらの人のステップアップをお手伝いしたり、心からの贈り物をすることも不可能ではない。また、こちらで大変なときに助力をお願いすることができる場合もある。…まあ、縁(えにし)あってこそだが。

「現世」というこちらはスクランブル交差点みたいなものだ。波長の違ういろいろな人々が同一領域にあるので、「機会」を掴みやすい。対してあちらは波長が違うと全く出くわせない。ひたすらに己の波動を育てるようなチャレンジへ、自分自身の望みと意志と力と責任を頼りに取り組むことが唯一の機会となるから、ある意味では「死んでからが正念場」とも言える。自分の何を“持ち越す”か、考え無しでいない方が良いことは確かだ。ただ、ひとり孤独に放り出されるのかというと、そうではない。

細かく言えば、「この世」と「あの世」、そしてそのどちらでもない「中間域」がある。

「この世」は言わずと知れたいつもの生活域。
「あの世」はきっぱりと人生を完了した心が進む活動域。
「中間域」は所謂“成仏せずの宙ぶらりん”な心がうろうろしたり、現世への目的を持った強い“思い入れ”の心がしばし留まって目的を果たす作用を為すフィールドだ。「怪談のオバケ」として認識されるものは、この「中間域」のものばかりだ。

どの領域にあろうが、旅路は旅路なのだ。長いスパンで見れば皆いつか、一定の山を越える。そしてその先も旅路は続く。どんな旅を創造し、どんな経験をするかを選ぶことも当たり前に為して、たえず「奉仕のスタイル」を洗練してゆく。

旅に終わりが無いからといって、休まず癒しもないなどということはない。自分が閉ざさなければ、旅をともにする仲間も友もある。新しいチャレンジも尽きない。そう、尽きないのだ。天国や地獄みたいなテーマパークで遊んでいるヒマは、あまり無いだろう。

どうか最良の旅路を。

5/29/2024, 3:12:56 PM

「ごめんね」

詫びなど数え切れないほどある。親に、祖父母に、友に、子どもたちに、大切な人に。全てに詫び状を書けば、私は詫び状の山に埋まってしまいそうだ。しかし同時に、感謝状もたくさんある。正直、詫び状より感謝状の山は何倍も大きい。きっと多くの人がそうだろうと思う。感謝状の山に潜り込んで埋まってみようかな。我ながらいい思いつきだ。

だが今日のお題は「ごめんね」。
届かぬ「ごめんね」が心のなかにあるとき、後悔に結び付いてしまうものも多々ある。さてどうしよう。私の場合、それは子どもの頃の記憶に刺さっている。自分でも原因がよくわからない破裂で友達に悲しい想いをさせた。今振り返っても、不当に傷つけたと思う。どこでどうしているか全くわからないので、たぶんもう会う機会はないだろう。いまのところ、これについて心の晴れる方法は見つからない。ふと思い出す度に「ごめんね」がわいてくる。

私の「ごめんね」は、子どもの私が所在なく持っている…

5/29/2024, 3:50:54 AM

半袖

寒い。今日は暖かい長袖で過ごす。

…それはさておいて、年をとってから、夏の強い太陽光を「痛く」感じるようになった。半袖から出る腕はもちろんジーンズを履いた脚も、じりじり痛い感覚がある。なので、場合により長袖を重ねたり、腰周りに厚手シャツを巻き結んだりする。おかしい、私はもともと地黒でサンバーンに縁が無くて目玉もまっ黒で太陽直視も平気だったのに、今ときたら太陽湿疹で痒くなり、目玉の色も薄くなって眼精疲労がお隣さんな近さ。地黒だけが相変わらず。これがトシということかッ…!

今夏の暑さは厳しいとの予測について、年寄りの体調管理方針や家屋設備の確認を介護事業者さんたちと打ち合わせることもぼちぼち出てきた。着せる服も半袖になっていくのだが、痩せてショックアブソーバー(筋肉・脂肪)の無い、軽くぶつけるのもケガのリスクに直結する祖母に半袖…ジレンマだ。

5/27/2024, 1:30:41 PM

天国と地獄

どうだったら天国で、どうだったら地獄なんだろうか?

大雑把な私見では、「天国」とやらも「地獄」とやらも、この現世で展開される心の色模様のひとつのようだと思う(この文脈にエデンの概念は含まない)。

天国か地獄か、大抵はグレーゾーン。
私の住処はまるでもののけ集会所。ツクモの犬に手伝いを頼み、「お主を食べれば凄い力を得られそうだが、いや、しかし…やめておいた方が無難そうだ」と宣われ、猫又にこんこんと言い聞かせ、「えっ、何それわかんない。うんうんとりあえず、うん」などとスルーされ、状態として亡者の子どもの髪を朝晩手入れする……自分と自分の子どもも合わせて、ある視点では大所帯だ。出入りの客も多い。天照様は酒樽をぶん回して豪快に笑い、子鬼を叱れば住之江様は「おうおう、恐いおばちゃんじゃなぁ」と子鬼を抱っこしてあやす。他にも真っ剣に厨二病を歩む「招かざる客」。多くは人間じゃないけどね。どうやら私も人間かどうか怪しいから、まあこんなもんだろう……そして気づく、「人間」というものが、かなり面倒臭い側面を顕す唯一の種族らしいことに。おイタが過ぎる。ドラゴンブレス吐いちゃうぞゴルァ!! まるでジブリのお話のようだ。

さて、天国か地獄か。地獄じゃない場所でも阿鼻叫喚はあるし、天国じゃない場所でも幸せな気持ちはある。同じ状況でも悲壮感に浸る心もあれば解決志向チャレンジにがぶり寄る心もあり、不平不満を見る心もあれば感謝を広げる心もある。

天国も地獄も自分次第の心次第だ。

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